遂に関ヶ原の日付が目前まで迫ってきましたよー。


北近江の戦国大名、京極高次は『蛍大名』と揶揄される微妙な立場の存在でした。
近江の守護という立場ながら戦国大名・浅井氏の庇護に置かれており、高次は幼少時に織田信長の下へ人質として送られることで恭順の意を示していました。
しかし本能寺の変で旧領回復を狙い明智光秀に同調、その光秀が僅か2週間足らずで敗れてしまったため高次も危機に陥りますが、妹の京極竜子が秀吉の側室となったことから許されることになりました。
高次はさらに浅井三姉妹の次女・初を正室に迎えることになり、この頃から「家名だけで得をしている」という意味で『蛍大名』と揶揄されるようになりました。


そんな微妙な立場の京極高次が、一転して表舞台に立つ機会が訪れます。
秀吉薨去後の1600年(慶長5年)、上杉征伐に赴いた徳川家康を排除すべく石田三成が挙兵。
伏見城を陥落させたことで畿内を掌握した三成ら西軍は、次に北陸方面の平定を画策します。
ところがそのタイミングで、京極高次は突然離反を表明して大津城での籠城を開始。
北陸方面のみならず東海道・中山道・伊勢方面への交通の要衝であった大津城の寝返りに西軍側は早急な対処を求められ、10月13日(旧暦9月7日)に毛利元康・立花宗茂ら西軍1万5000が包囲戦を開始します。


大津城は物資拠点としての性格が強い城で籠城戦向きではありませんでしたが、高次らは一週間もの間包囲戦に耐えました。
そして大津城が降伏を表明した10月20日(旧暦9月14日)、徳川家康の大軍勢が突如として美濃赤坂に姿を現します。
大津城の攻略に必死だった西軍は家康の行軍を全く把握しておらず、西軍の主力は大慌てで迎撃に向かうことになります。
翌日に大津城開城の処理が完了しますが、その時点で既に西軍は関ヶ原で敗れていました。
大津城攻略に専念していた立花宗茂ら西軍1万5千は本戦に何一つ寄与できなかったばかりか、西軍本隊が敗れたため大津城攻略自体が無意味な戦果となってしまいました。


関ヶ原の戦後処理において、西軍の軍勢を足止めした京極高次の功績は家康に高く評価されました。
京極氏は石高を大幅に加増され、若狭一国を与えられた国持ち大名となります。
それはかつて『蛍大名』と揶揄された家名だけが取り柄の大名ではなく、確かな実績を持って家の再興を果たした誇るべき大名の姿でした。
その後も京極氏はその家名と関ヶ原での功績を讃えられて近世大名として存続、分家を含めて4家が明治維新を迎えています。
主家に当たる丸亀子爵家は北海道の開拓に従事、『京極町』として現在でも北の大地にその名を残しています。

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