シーボルト事件は、ドイツ人医師シーボルトが日本地図など国外持出し禁止品を持ち出そうとして発覚し、シーボルト本人を含め多数の関係者が処罰された事件です。


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはドイツ人の医師・博物学者で、オランダ商館付の医師として長崎・出島に来日しました。
長崎郊外の鳴滝に『鳴滝塾』を開き、日本人の医師や蘭学者たちに西洋医学や博物学を教えています。
しかし彼が5年間の滞在期間を終えて帰国することになった1828年9月18日(文政11年8月10日 )、突然事件が発生します。
出航前の検問で船の積み荷の中に日本地図を含め葵紋付きの衣服など国外持ち出し禁制の品々が多数含まれていたことが発覚、幕府を巻き込んだ大問題となりました。


シーボルトが所持していた日本地図などの品々は、幕府天文方・高橋景保との情報・資料の交換によってもたらされたものでした。
その返礼としてシーボルトはクルーゼンシュテルンの航海記『世界周航記』を渡しています。
なおシーボルトは蝦夷地の探検で知られる間宮林蔵とも交流の機会がありましたが、間宮は外国人との私的な物品の贈答は国禁に触れると考えて慎重な対応を徹底しており、その点でもシーボルトと景保は軽率だった点は否めません。
なおシーボルトが本当に日本の情報を盗み出そうとしていたスパイだったという説、景保が銅版地図印刷のためにシーボルトに日本地図を譲渡したという説も一部で語られることがありますが、後者はともかく前者は裏付けに乏しい一種の陰謀論であることに注意が必要です。


1年近い取り調べを経たのち、シーボルトは国外追放処分。
国外持ち出し禁制品を贈答した景保らを筆頭にシーボルトに関わった50人以上が処罰の対象となりました。
なお肝心の日本地図は没収前に複製品が作成されており、シーボルトはそのままオランダへ持ち帰ることに成功しています。
日本地図の驚異的な精度の高さに英国を始めとする欧州諸国は驚き、武力を用いる外交から方針転換をしたとも言われます。


事件発生からちょうど30年後、1858年(安政5年)に日蘭修好通商条約が締結されるとシーボルトの国外追放処分も解除され、彼は再び来日します。
しかも幕府の外交顧問に抜擢されるほどの待遇で、30年の間に幕府の方針が大きく変化したことの証でもありました。
やがて日本国内が幕末の動乱に巻き込まれるとシーボルトは再び日本を離れることになりますが、長男アレクサンダーは明治維新後にお雇い外国人として新政府に雇用され、パリ万博参加や不平等条約改正など数多くの功績を残すことになります。

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