冒険者、水平線の朝日と共に -放浪冒険者の歩み方-
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――ぐちゃり。
剣が腐肉へ食い込んだ。
「ッ……!」
ソルフが横薙ぎに剣を振り抜く。
刃は濡れた肉を裂き、そのまま骨を断った。
ぼとっ。
腐敗した片脚が甲板へ転がる。
「ァ……ァア……」
それでも、目の前の“それ”は倒れなかった。
片脚を失った身体をぐらりと揺らしながら、
腐り落ちた腕をソルフへ伸ばす。
「しぶといな!」
ソルフが一歩退く。
――ぎしっ。
足元の床が嫌な音を立てた。
「うわっ」
慌てて重心をずらす。
直後、踏んでいた木板が、べきりと割れた。
その隙間から黒い海面が覗く。
「ソルフさん! 足元!」
「分かってる!」
後方からモフの声。
船上、正確には――。
例の亡霊船、その甲板。
二人は今、深夜の沖合で、
腐臭漂う亡者の群れに囲まれていた。
ーーー
つい少し前。
夜の海へ突然現れた巨大な帆船を確認した二人は、
浜辺に置かれていた小船を使い、海へ漕ぎ出した。
近づくほど、その船が異常なものであることは
明白になっていった。
船体は腐っている。帆は裂け、
木材には苔と海藻がびっしりと張り付き。
本来ならとっくに沈んで
いなければおかしい状態だった。
にもかかわらず、浮いている。
それどころか、波に流される様子すらない。
まるで――。
海そのものへ縫い付けられているように。
そして、二人が船へ乗り移った直後。
甲板の暗闇から、奴らが現れた。
「ォ……ォオ……」
「アァ……」
「……うぅ」
モフが鼻元を袖で覆う。
「臭いです……!」
「鼻で息するな!」
「口で息しても臭いです!」
「じゃあ我慢!」
「雑です!」
腐臭、潮臭さ、湿った木材の匂い。
その全てが混ざり合っていた。
明かりはない。頼りになるのは月明かりと、
モフが用意した小さな魔術灯だけ。
しかも、軽い波が来るたびに船全体が大きく傾く。
ぎし。
ぎしぎし。
至るところから、不吉な音が鳴っていた。
「最悪ですね、この場所!」
「俺もそう思う!」
正面から二体、ソルフが踏み込む。
低く構え、一閃。
ザンッ!
「――!」
二体の亡者、その膝下が同時に切り飛ばされた。
腐った身体が甲板へ崩れ落ちる。
「モフ!」
「はい!」
「今!」
二人は倒れた亡者の横を走り抜ける。
まだいる。
左から一体、右から二体。
船室へ続く階段の前にも一体。
「多い!」
「倒す必要ない! 抜けるぞ!」
ソルフは正面の亡者へ肩からぶつかった。
肉が腐っているのか、軽い。
亡者が横倒しになる。
その隙間を縫い、二人は船内へ飛び込んだ。
ーーー
船内は、さらに酷かった。
真っ暗、狭い、湿っている。
壁には海藻がこびりつき、
天井から絶えず水滴が落ちてくる。
ちゃぷ、ちゃぷ。
床には薄く海水が溜まっていた。
「……これ、沈まないんですか?」
「普通なら沈んでる」
「ですよね」
「そもそも普通の船なら、何年海に浮かんで
ようがこんな状態で航行できない」
ソルフは剣を構えたまま進む。
後方をモフが魔術灯で照らす。
遠くからずるずる、何かを引きずる音が聞こえる。
モフが振り返った。
「来てます……」
「先へ行こう」
二人は走らない。床が腐っている。
下手に強く踏めば、
そのまま下層へ落ちる可能性があった。
慎重に、しかし素早く、船内を進む。
「……ソルフさん」
「ん?」
「あの人たち……」
モフが声を潜める。
「服……」
「ああ」
ソルフも気付いていた。
亡者たちが着ているもの。
海賊の服ではない。古代の船員服でもない。
普通の衣服だ。
しかも、
この沿岸地域で現在使われているような服装。
中には、漁師らしき格好の者までいた。
「失踪した人たち……ですよね」
「可能性は高い」
「…………」
モフの耳が沈む、あの人々が、
自分が昨日聞き込みをした住民たちの、
家族、友人、知人だったかもしれない。
そう考えると、さっきまで単なる魔物として
見えていた亡者の姿が、急に重く感じられた。
「でも……」
モフが尋ねる。
「結局、この船って何なんですか?」
「俺の予想でいいか?」
「はい」
ソルフは前を見ながら答えた。
「ダンジョンだ」
「……船が?」
「ああ」
「でもダンジョンって……」
「洞窟とか遺跡ばっかりじゃない」
世界中に現れるダンジョン。
大半は地中に形成される洞窟型。
あるいは、地表や海、空に生成される遺跡群。
そして、中には、
そのどちらにも当てはめにくいものが存在する。
「冒険者の間じゃ、“ファントムダンジョン”とか
“ゴーストダンジョン”なんて呼ばれてる」
「聞いたことありません」
「そりゃそうだ。滅多に出ない」
「どう違うんですか?」
「特定の形がない」
ソルフが足を止める。
角、亡者はいない、進む。
「建物だったり、乗り物だったり。
現れては消える。場所を変える奴もいる」
「……じゃあ」
モフが周囲を見回す。
「この船そのものが……」
「ダンジョンの肉体みたいなもんかもしれない」
ぎし……。船体が鳴る。
まるで、その会話を聞いているかのように。
モフが顔を引きつらせた。
「今それ言わないでくださいよ……」
「聞いたのモフだぞ」
ーーー
さらに奥へ。
「じゃあ、失踪した人たちも……?」
「こいつに食われたんだろうな」
「食べられた?」
「文字通りじゃないかもしれないけどな」
ソルフは言う。
「昨日、海に潜った時に見たんだ」
「……昨日?」
モフの目が細くなる。
「いつです?」
「モフが聞き込みに行ったあと」
「仕事してたんですか!?」
「今そこ?」
「だって昨日ずっと遊んでたじゃないですか!」
「遊びながら仕事してた」
「一番腹立つやつです!」
「静かに」
「むぅ……」
ソルフは続ける。
「この辺、小魚型の魔獣が妙に多かった」
「小魚?」
「ああ。露店のおっちゃんにも聞いた。
近海じゃ昔から普通に獲れる。
地元じゃ結構食われてるらしい」
「それが何か?」
「魔獣だぞ」
「……あ」
モフが気付く。
魔獣、魔力核を持つ生物。
当然、その血肉にも僅かながら魔力は含まれている。
「地元の人間は、昔からそいつらを食ってる」
「つまり……少しずつ魔力を……?」
「体内に取り込んでる可能性がある」
日常的な食事として、僅かずつ、繰り返し。
「このダンジョンと、
あの小魚型の魔獣に何か繋がりがあるなら」
ソルフが呟く。
「魚を媒介にして、
人間へ間接的に干渉してた可能性がある」
「催眠……?」
「近いかもな」
深夜、突然海へ向かう住民。
濡れた裸足の跡。そのまま海の中へ消える足跡。
本人に自覚すらないまま、何かに呼ばれ、海へ。
「それでこの船まで誘い込んで……」
「捕食する」
「…………」
「で」
ソルフは廊下の先を見る。
「食い終わった残りが、あいつらなんじゃないか」
遠く、亡者の呻き声が聞こえた。
「趣味悪いな」
ソルフが小さく吐き捨てる。
ーーー
探索を続け、やがて、二人は船尾側へ辿り着いた。
扉。、他の船室よりも大きい。
半ば腐り落ちたプレートには、
辛うじて装飾の跡が残っている。
「船長室……ですかね」
「多分な」
ソルフが扉を押す。
ぎぃぃぃ……。
室内、机、椅子、棚、全て朽ちかけている。
壁には古びた海図。
もっとも、水で滲み、もはや地形すら判別できない。
「何か探せ」
「はい」
二人で室内を調べ始める。
引き出し、棚、机の下、壁。
「……ソルフさん」
「何かあった?」
「これ」
モフが何かを持ち上げる。
一冊の本…いや、手記だった。
黒ずんだ革表紙、金具は錆びている。
これだけ湿った部屋に長年置かれていたなら、
とっくに紙など崩れていてもおかしくない。
だが。
「……濡れてない」
モフが言う。
「妙だな」
ソルフが受け取る。開く。
「…………」
びっしりと、文字が並んでいた。
モフが覗き込む。
「読めません」
「俺も全部は無理」
「何語です?」
「いにしえの魔族文字」
「魔族……」
「今じゃまず使われない」
ソルフは数ページめくる。
航海記録、日記、何らかの儀式。
判別できる単語だけを拾っても、内
容はさっぱり繋がらない。だが。
「…………」
ソルフは本を閉じた。
「これだな」
「何がです?」
「核」
「え?」
モフが手記を見る。
「これが?」
「多分」
「どうして分かるんですか?」
「ここ見てみろ」
ソルフが机を指差す。手記が置かれていた場所。
そこだけ、木材が腐っていない。
さらに、手記そのものも乾いている。
「船中びしょ濡れなのに、こいつだけ無傷」
「……確かに」
「それに」
ソルフは手記を少し離す。
その瞬間、ぎ……。
船が鳴った。モフが固まる。
「今……」
「気のせいじゃないな」
手記を机へ近づける。
静かになる、離す、ぎし……。
「…………」
「…………」
モフが顔を引きつらせる。
「持って帰るんですか?」
「ああ」
「嫌がってません?」
「知らん」
「絶対嫌がってますよ!」
「ギルドで調べてもらう」
ソルフはポーチから防水布を取り出し。
手記を包んだ。さらに紐で縛る。
「回収完了」
直後。
――ドンッ!
船全体が大きく揺れた。
「きゃっ!?」
モフが机へ掴まる。壁の向こうから。
「ァァァァァ……!」
「オォォォォォ……!」
大量の呻き声。
「……怒ったな」
「だから言ったじゃないですかぁ!」
「走るぞ!」
ーーー
帰り道は、来た時以上に酷かった。
「右!」
「はい!」
亡者の腕が伸びる。モフが身体を屈める。
その上をソルフの剣が通過。腕が落ちる。
「行け!」
二人が駆け抜ける。
「前!」
「見えてる!」
ソルフが亡者を蹴り飛ばす。
床板が割れる。亡者の身体が船底へ落ちていく。
だが、追ってくる。次から次へと。
「何体いるんですか!」
「数えたくない!」
甲板へ、夜空、そして…。
「小船!」
「あります!」
船側へ結び付けておいた小船。無事だ。
「先に降りろ!」
「ソルフさんは!?」
「すぐ行く!」
モフが縄梯子を降りる。
ソルフは甲板へ迫る亡者を牽制。
一体、二体、三体。
「ったく!」
剣を振り、距離を作る。
「ソルフさん!」
「今行く!」
縄梯子へ、降りる。小船へ飛び移る。
「離せ!」
「はい!」
モフが係留縄を外す。ソルフがオールを掴む。
ざぶざぶ、船が離れていく。
「はぁ……」
モフが肩で息をする。
「何とか……」
「ああ」
ソルフも息を吐く。
東の空が、薄く、僅かに明るくなり始めていた。
「夜明けか」
そう言って、ソルフは振り返った。
「…………」
そして、止まった。
「ソルフさん?」
「…………」
「どうしました?」
モフも振り返る。
「…………え?」
そこに、船はなかった。
帆も、帆柱も、腐った船体も何もない。
代わりに、巨大な半透明の“何か”が、
海面から浮かび上がっていた。
輪郭は揺らぎ、水とも霧ともつかない身体。
そして、その中央に、裂けるような巨大な口。
「――ッ!」
音もなく開く。
まるで、船そのものが化けの皮だったかのように、
大口が、二人の乗った小船を
丸ごと呑み込もうとしている。
「モフ!」
「は、はい!?」
「伏せろ!」
ソルフがポーチへ手を突っ込む。
取り出したのは、拳ほどの球状の魔道具。
「ソルフさん、それ――」
「後で!」
握る。起動、表面の魔術紋様が淡く光る。
「ほらよ!」
放った。放物線を描き、球体が、
怪物の大口の奥へ消える。
ソルフは即座にオールを握り直した。
「急いで逃げるぞモフ!」
「はいっ!」
ざばん!一掻き。ざばん!二掻き。
「うおおおおおおおっ!」
ソルフが全力でオールを漕ぐ。
「速く! もっと速く!」
「漕いでる!」
「来てます!」
「分かってる!」
「もっと!」
「だったらそっちも漕げぇ!」
「オール一組しかないじゃないですか!」
「ああもう!」
必死。ただひたすらに、岸へ。
その時、背後一瞬、夜の海が、
昼間のように明るくなった。
――ドォォォォォンッ!!大爆発。
「きゃああっ!」
爆風、波、小船が持ち上がる。
「うおっ!」
それでも、ソルフは振り返らない。
「漕げ漕げ漕げ漕げ俺ぇぇぇぇ!」
「自分に言い聞かせてる!?」
「今それどころじゃない!」
後ろで何が起きているのか、
怪物が死んだのか、逃げたのか、消えたのか、
確認しない。ただ陸へ。全力で。
ーーー
ざざっ!小船が砂へ乗り上げた。
「つ……着いた……!」
ソルフはオールを手放した。
そのまま、前のめりに砂浜へ倒れ込む。
「はぁ……!」
「はぁ……はぁ……!」
モフも小船から降り、砂浜へ座り込んだ。
しばらく、二人とも何も言えなかった。
ただ、呼吸だけ。
「……しんど……」
ソルフが呟く。
「私……ほとんど漕いでないのに疲れました……」
「何でだよ……」
「怖かったんです……!」
「俺も怖かったよ……」
ソルフは砂に両手をつき、ゆっくりと顔を上げた。
「…………」
ちょうど、その瞬間だった。
水平線、暗い海の向こう。一筋の光。
夜を押し退けるように、太陽が昇り始めていた。
赤、橙、金、夜の黒がゆっくりと青へ変わっていく。
ソルフは、しばらく、その光景を眺めていた。
「……綺麗ですね」
隣でモフが言う。
「ああ」
短く返す。
昨日、夕日に染まった水平線を眺めた時とは違う。
今は、その向こうに、亡霊船の影はない。
ただ、朝日だけがあった。
「…………」
ソルフは腰のポーチを確認する。
中、防水布に包まれた、一冊の手記。
「こいつを持って帰れば」
ぽん。軽く叩く。
「師匠も文句ないだろ」
「ソルフさん」
「ん?」
「報告書もありますよ」
「…………」
「ちゃんと書いてくださいね」
「今言う?」
「忘れそうなので」
「朝日見ながら現実に引き戻すなよ……」
ーーー
宿へ戻る頃には、すっかり朝だった。
「……おやすみなさい」
「おう」
部屋へ入るなり、モフは荷物を下ろし、ベッドへ。
ばふっ、倒れた。
「着替えろよ」
「むりです……」
「せめて靴……」
「むり……」
数秒。
「…………」
「寝るの早」
ソルフは苦笑する。
自分も眠い、猛烈に眠い。
だが、机へ向かう。
紙を広げ、ペンを持つ。
「さて……」
依頼報告、深夜の咆哮、船影、失踪者、
亡霊船内部、亡者、ファントムダンジョンの可能性、
核と思われる手記の回収。
そして。
「……小魚」
ソルフのペンが止まる。
今回の一件、まだ、全てが解明されたわけではない。
特に、あの小型魔獣とダンジョンの関係、
地元住民への干渉。
日常的に魔獣を食べることで体内へ蓄積された僅か
な魔力を、ダンジョンが何らかの方法で利用した。
その可能性は高い。
だが、あくまで推測。
「……調査要請、と」
その部分は、勝手に断定せず、ギルドへ回す。
あの手記も専門家なら何か読み取れるだろう。
「よし」
さらに書く。そして。
「…………」
途中、ペンが止まった。
「……眠い」
顔を擦る。再び書く。
「…………」
書く。
「…………」
書く。
「…………」
机へ突っ伏しかける。
「駄目だ駄目だ」
顔を上げる、横を見る。
モフは、完全に熟睡していた。
耳も力なく垂れ、
大きな尻尾を抱き枕代わりにしている。
「……羨ましい」
ソルフは溜め息。
そして、報告書へ戻った。
ーーー
翌日。
「お世話になりました!」
モフが宿の主人へ頭を下げる。
「おう。また来な!」
「今度は仕事抜きで来たいです!」
「俺も」
「ソルフさんはほとんど仕事抜きでしたよね?」
「ちゃんと仕事しただろ」
「最後だけ!」
荷物を背負った二人は、宿を後にする。
朝の街、昨日までと変わらない。
露店が開き、漁師が海へ出て、
観光客がビーチへ向かっている。
夜の海で、何が起きていたのかなど、
知らない者の方が多いだろう。
「失踪した人たち……」
モフがぽつり。
「戻ってきませんでしたね」
「……ああ」
ソルフの答えは短い。
船内で見た亡者たち、
あれが本当に失踪者だったのなら、
救うには、遅すぎた。
「でも」
ソルフが言う。
「次は出さない」
「……はい」
「そのために持って帰るんだ」
ポーチを軽く叩く。
手記。今回の事件の核。
あるいは、まだ何かを隠している代物。
「クルエールさん、嫌な顔しそうですね」
「何で?」
「謎の古代文書なんて持ち込むから」
「俺じゃなくて師匠に渡そう」
「責任逃れしないでください」
「支部長だぞ。責任取るのが仕事だ」
「それ本人の前で言えます?」
「…………」
「言えないんですね」
二人は歩く。
やがて、ビーチが遠ざかる。
亡霊船の噂、夜の咆哮、複数の失踪、不可解な足跡、
ファントムダンジョン。
そして、いにしえの魔族文字が綴られた、
一冊の手記。
まだ謎は残っている。
それでも、冒険者の仕事とは、時に、
全ての謎をその場で解き明かすことではない。
生きて帰り、見たものを伝え、
次へ繋げることでもある。
「帰ったら休むぞ」
「報告が先です」
「もう書いた」
「追加で聞き取りされますよ」
「……じゃあその後」
「支部長さんが次の依頼を――」
「それ以上言うな」
「ふふっ」
モフが笑う。
ソルフは嫌そうな顔をしながらも、
その歩みを止めなかった。
目的地は、
冒険者ギルド、ステラヴェイル支部。
水平線から昇った朝日と共に終わった、一つの依頼。
こうして、冒険者ソルフと、
そのサポーター、モフの、奇妙な“バカンス”は、
ようやく幕を閉じた。
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――ぐちゃり。
剣が腐肉へ食い込んだ。
「ッ……!」
ソルフが横薙ぎに剣を振り抜く。
刃は濡れた肉を裂き、そのまま骨を断った。
ぼとっ。
腐敗した片脚が甲板へ転がる。
「ァ……ァア……」
それでも、目の前の“それ”は倒れなかった。
片脚を失った身体をぐらりと揺らしながら、
腐り落ちた腕をソルフへ伸ばす。
「しぶといな!」
ソルフが一歩退く。
――ぎしっ。
足元の床が嫌な音を立てた。
「うわっ」
慌てて重心をずらす。
直後、踏んでいた木板が、べきりと割れた。
その隙間から黒い海面が覗く。
「ソルフさん! 足元!」
「分かってる!」
後方からモフの声。
船上、正確には――。
例の亡霊船、その甲板。
二人は今、深夜の沖合で、
腐臭漂う亡者の群れに囲まれていた。
ーーー
つい少し前。
夜の海へ突然現れた巨大な帆船を確認した二人は、
浜辺に置かれていた小船を使い、海へ漕ぎ出した。
近づくほど、その船が異常なものであることは
明白になっていった。
船体は腐っている。帆は裂け、
木材には苔と海藻がびっしりと張り付き。
本来ならとっくに沈んで
いなければおかしい状態だった。
にもかかわらず、浮いている。
それどころか、波に流される様子すらない。
まるで――。
海そのものへ縫い付けられているように。
そして、二人が船へ乗り移った直後。
甲板の暗闇から、奴らが現れた。
「ォ……ォオ……」
「アァ……」
「……うぅ」
モフが鼻元を袖で覆う。
「臭いです……!」
「鼻で息するな!」
「口で息しても臭いです!」
「じゃあ我慢!」
「雑です!」
腐臭、潮臭さ、湿った木材の匂い。
その全てが混ざり合っていた。
明かりはない。頼りになるのは月明かりと、
モフが用意した小さな魔術灯だけ。
しかも、軽い波が来るたびに船全体が大きく傾く。
ぎし。
ぎしぎし。
至るところから、不吉な音が鳴っていた。
「最悪ですね、この場所!」
「俺もそう思う!」
正面から二体、ソルフが踏み込む。
低く構え、一閃。
ザンッ!
「――!」
二体の亡者、その膝下が同時に切り飛ばされた。
腐った身体が甲板へ崩れ落ちる。
「モフ!」
「はい!」
「今!」
二人は倒れた亡者の横を走り抜ける。
まだいる。
左から一体、右から二体。
船室へ続く階段の前にも一体。
「多い!」
「倒す必要ない! 抜けるぞ!」
ソルフは正面の亡者へ肩からぶつかった。
肉が腐っているのか、軽い。
亡者が横倒しになる。
その隙間を縫い、二人は船内へ飛び込んだ。
ーーー
船内は、さらに酷かった。
真っ暗、狭い、湿っている。
壁には海藻がこびりつき、
天井から絶えず水滴が落ちてくる。
ちゃぷ、ちゃぷ。
床には薄く海水が溜まっていた。
「……これ、沈まないんですか?」
「普通なら沈んでる」
「ですよね」
「そもそも普通の船なら、何年海に浮かんで
ようがこんな状態で航行できない」
ソルフは剣を構えたまま進む。
後方をモフが魔術灯で照らす。
遠くからずるずる、何かを引きずる音が聞こえる。
モフが振り返った。
「来てます……」
「先へ行こう」
二人は走らない。床が腐っている。
下手に強く踏めば、
そのまま下層へ落ちる可能性があった。
慎重に、しかし素早く、船内を進む。
「……ソルフさん」
「ん?」
「あの人たち……」
モフが声を潜める。
「服……」
「ああ」
ソルフも気付いていた。
亡者たちが着ているもの。
海賊の服ではない。古代の船員服でもない。
普通の衣服だ。
しかも、
この沿岸地域で現在使われているような服装。
中には、漁師らしき格好の者までいた。
「失踪した人たち……ですよね」
「可能性は高い」
「…………」
モフの耳が沈む、あの人々が、
自分が昨日聞き込みをした住民たちの、
家族、友人、知人だったかもしれない。
そう考えると、さっきまで単なる魔物として
見えていた亡者の姿が、急に重く感じられた。
「でも……」
モフが尋ねる。
「結局、この船って何なんですか?」
「俺の予想でいいか?」
「はい」
ソルフは前を見ながら答えた。
「ダンジョンだ」
「……船が?」
「ああ」
「でもダンジョンって……」
「洞窟とか遺跡ばっかりじゃない」
世界中に現れるダンジョン。
大半は地中に形成される洞窟型。
あるいは、地表や海、空に生成される遺跡群。
そして、中には、
そのどちらにも当てはめにくいものが存在する。
「冒険者の間じゃ、“ファントムダンジョン”とか
“ゴーストダンジョン”なんて呼ばれてる」
「聞いたことありません」
「そりゃそうだ。滅多に出ない」
「どう違うんですか?」
「特定の形がない」
ソルフが足を止める。
角、亡者はいない、進む。
「建物だったり、乗り物だったり。
現れては消える。場所を変える奴もいる」
「……じゃあ」
モフが周囲を見回す。
「この船そのものが……」
「ダンジョンの肉体みたいなもんかもしれない」
ぎし……。船体が鳴る。
まるで、その会話を聞いているかのように。
モフが顔を引きつらせた。
「今それ言わないでくださいよ……」
「聞いたのモフだぞ」
ーーー
さらに奥へ。
「じゃあ、失踪した人たちも……?」
「こいつに食われたんだろうな」
「食べられた?」
「文字通りじゃないかもしれないけどな」
ソルフは言う。
「昨日、海に潜った時に見たんだ」
「……昨日?」
モフの目が細くなる。
「いつです?」
「モフが聞き込みに行ったあと」
「仕事してたんですか!?」
「今そこ?」
「だって昨日ずっと遊んでたじゃないですか!」
「遊びながら仕事してた」
「一番腹立つやつです!」
「静かに」
「むぅ……」
ソルフは続ける。
「この辺、小魚型の魔獣が妙に多かった」
「小魚?」
「ああ。露店のおっちゃんにも聞いた。
近海じゃ昔から普通に獲れる。
地元じゃ結構食われてるらしい」
「それが何か?」
「魔獣だぞ」
「……あ」
モフが気付く。
魔獣、魔力核を持つ生物。
当然、その血肉にも僅かながら魔力は含まれている。
「地元の人間は、昔からそいつらを食ってる」
「つまり……少しずつ魔力を……?」
「体内に取り込んでる可能性がある」
日常的な食事として、僅かずつ、繰り返し。
「このダンジョンと、
あの小魚型の魔獣に何か繋がりがあるなら」
ソルフが呟く。
「魚を媒介にして、
人間へ間接的に干渉してた可能性がある」
「催眠……?」
「近いかもな」
深夜、突然海へ向かう住民。
濡れた裸足の跡。そのまま海の中へ消える足跡。
本人に自覚すらないまま、何かに呼ばれ、海へ。
「それでこの船まで誘い込んで……」
「捕食する」
「…………」
「で」
ソルフは廊下の先を見る。
「食い終わった残りが、あいつらなんじゃないか」
遠く、亡者の呻き声が聞こえた。
「趣味悪いな」
ソルフが小さく吐き捨てる。
ーーー
探索を続け、やがて、二人は船尾側へ辿り着いた。
扉。、他の船室よりも大きい。
半ば腐り落ちたプレートには、
辛うじて装飾の跡が残っている。
「船長室……ですかね」
「多分な」
ソルフが扉を押す。
ぎぃぃぃ……。
室内、机、椅子、棚、全て朽ちかけている。
壁には古びた海図。
もっとも、水で滲み、もはや地形すら判別できない。
「何か探せ」
「はい」
二人で室内を調べ始める。
引き出し、棚、机の下、壁。
「……ソルフさん」
「何かあった?」
「これ」
モフが何かを持ち上げる。
一冊の本…いや、手記だった。
黒ずんだ革表紙、金具は錆びている。
これだけ湿った部屋に長年置かれていたなら、
とっくに紙など崩れていてもおかしくない。
だが。
「……濡れてない」
モフが言う。
「妙だな」
ソルフが受け取る。開く。
「…………」
びっしりと、文字が並んでいた。
モフが覗き込む。
「読めません」
「俺も全部は無理」
「何語です?」
「いにしえの魔族文字」
「魔族……」
「今じゃまず使われない」
ソルフは数ページめくる。
航海記録、日記、何らかの儀式。
判別できる単語だけを拾っても、内
容はさっぱり繋がらない。だが。
「…………」
ソルフは本を閉じた。
「これだな」
「何がです?」
「核」
「え?」
モフが手記を見る。
「これが?」
「多分」
「どうして分かるんですか?」
「ここ見てみろ」
ソルフが机を指差す。手記が置かれていた場所。
そこだけ、木材が腐っていない。
さらに、手記そのものも乾いている。
「船中びしょ濡れなのに、こいつだけ無傷」
「……確かに」
「それに」
ソルフは手記を少し離す。
その瞬間、ぎ……。
船が鳴った。モフが固まる。
「今……」
「気のせいじゃないな」
手記を机へ近づける。
静かになる、離す、ぎし……。
「…………」
「…………」
モフが顔を引きつらせる。
「持って帰るんですか?」
「ああ」
「嫌がってません?」
「知らん」
「絶対嫌がってますよ!」
「ギルドで調べてもらう」
ソルフはポーチから防水布を取り出し。
手記を包んだ。さらに紐で縛る。
「回収完了」
直後。
――ドンッ!
船全体が大きく揺れた。
「きゃっ!?」
モフが机へ掴まる。壁の向こうから。
「ァァァァァ……!」
「オォォォォォ……!」
大量の呻き声。
「……怒ったな」
「だから言ったじゃないですかぁ!」
「走るぞ!」
ーーー
帰り道は、来た時以上に酷かった。
「右!」
「はい!」
亡者の腕が伸びる。モフが身体を屈める。
その上をソルフの剣が通過。腕が落ちる。
「行け!」
二人が駆け抜ける。
「前!」
「見えてる!」
ソルフが亡者を蹴り飛ばす。
床板が割れる。亡者の身体が船底へ落ちていく。
だが、追ってくる。次から次へと。
「何体いるんですか!」
「数えたくない!」
甲板へ、夜空、そして…。
「小船!」
「あります!」
船側へ結び付けておいた小船。無事だ。
「先に降りろ!」
「ソルフさんは!?」
「すぐ行く!」
モフが縄梯子を降りる。
ソルフは甲板へ迫る亡者を牽制。
一体、二体、三体。
「ったく!」
剣を振り、距離を作る。
「ソルフさん!」
「今行く!」
縄梯子へ、降りる。小船へ飛び移る。
「離せ!」
「はい!」
モフが係留縄を外す。ソルフがオールを掴む。
ざぶざぶ、船が離れていく。
「はぁ……」
モフが肩で息をする。
「何とか……」
「ああ」
ソルフも息を吐く。
東の空が、薄く、僅かに明るくなり始めていた。
「夜明けか」
そう言って、ソルフは振り返った。
「…………」
そして、止まった。
「ソルフさん?」
「…………」
「どうしました?」
モフも振り返る。
「…………え?」
そこに、船はなかった。
帆も、帆柱も、腐った船体も何もない。
代わりに、巨大な半透明の“何か”が、
海面から浮かび上がっていた。
輪郭は揺らぎ、水とも霧ともつかない身体。
そして、その中央に、裂けるような巨大な口。
「――ッ!」
音もなく開く。
まるで、船そのものが化けの皮だったかのように、
大口が、二人の乗った小船を
丸ごと呑み込もうとしている。
「モフ!」
「は、はい!?」
「伏せろ!」
ソルフがポーチへ手を突っ込む。
取り出したのは、拳ほどの球状の魔道具。
「ソルフさん、それ――」
「後で!」
握る。起動、表面の魔術紋様が淡く光る。
「ほらよ!」
放った。放物線を描き、球体が、
怪物の大口の奥へ消える。
ソルフは即座にオールを握り直した。
「急いで逃げるぞモフ!」
「はいっ!」
ざばん!一掻き。ざばん!二掻き。
「うおおおおおおおっ!」
ソルフが全力でオールを漕ぐ。
「速く! もっと速く!」
「漕いでる!」
「来てます!」
「分かってる!」
「もっと!」
「だったらそっちも漕げぇ!」
「オール一組しかないじゃないですか!」
「ああもう!」
必死。ただひたすらに、岸へ。
その時、背後一瞬、夜の海が、
昼間のように明るくなった。
――ドォォォォォンッ!!大爆発。
「きゃああっ!」
爆風、波、小船が持ち上がる。
「うおっ!」
それでも、ソルフは振り返らない。
「漕げ漕げ漕げ漕げ俺ぇぇぇぇ!」
「自分に言い聞かせてる!?」
「今それどころじゃない!」
後ろで何が起きているのか、
怪物が死んだのか、逃げたのか、消えたのか、
確認しない。ただ陸へ。全力で。
ーーー
ざざっ!小船が砂へ乗り上げた。
「つ……着いた……!」
ソルフはオールを手放した。
そのまま、前のめりに砂浜へ倒れ込む。
「はぁ……!」
「はぁ……はぁ……!」
モフも小船から降り、砂浜へ座り込んだ。
しばらく、二人とも何も言えなかった。
ただ、呼吸だけ。
「……しんど……」
ソルフが呟く。
「私……ほとんど漕いでないのに疲れました……」
「何でだよ……」
「怖かったんです……!」
「俺も怖かったよ……」
ソルフは砂に両手をつき、ゆっくりと顔を上げた。
「…………」
ちょうど、その瞬間だった。
水平線、暗い海の向こう。一筋の光。
夜を押し退けるように、太陽が昇り始めていた。
赤、橙、金、夜の黒がゆっくりと青へ変わっていく。
ソルフは、しばらく、その光景を眺めていた。
「……綺麗ですね」
隣でモフが言う。
「ああ」
短く返す。
昨日、夕日に染まった水平線を眺めた時とは違う。
今は、その向こうに、亡霊船の影はない。
ただ、朝日だけがあった。
「…………」
ソルフは腰のポーチを確認する。
中、防水布に包まれた、一冊の手記。
「こいつを持って帰れば」
ぽん。軽く叩く。
「師匠も文句ないだろ」
「ソルフさん」
「ん?」
「報告書もありますよ」
「…………」
「ちゃんと書いてくださいね」
「今言う?」
「忘れそうなので」
「朝日見ながら現実に引き戻すなよ……」
ーーー
宿へ戻る頃には、すっかり朝だった。
「……おやすみなさい」
「おう」
部屋へ入るなり、モフは荷物を下ろし、ベッドへ。
ばふっ、倒れた。
「着替えろよ」
「むりです……」
「せめて靴……」
「むり……」
数秒。
「…………」
「寝るの早」
ソルフは苦笑する。
自分も眠い、猛烈に眠い。
だが、机へ向かう。
紙を広げ、ペンを持つ。
「さて……」
依頼報告、深夜の咆哮、船影、失踪者、
亡霊船内部、亡者、ファントムダンジョンの可能性、
核と思われる手記の回収。
そして。
「……小魚」
ソルフのペンが止まる。
今回の一件、まだ、全てが解明されたわけではない。
特に、あの小型魔獣とダンジョンの関係、
地元住民への干渉。
日常的に魔獣を食べることで体内へ蓄積された僅か
な魔力を、ダンジョンが何らかの方法で利用した。
その可能性は高い。
だが、あくまで推測。
「……調査要請、と」
その部分は、勝手に断定せず、ギルドへ回す。
あの手記も専門家なら何か読み取れるだろう。
「よし」
さらに書く。そして。
「…………」
途中、ペンが止まった。
「……眠い」
顔を擦る。再び書く。
「…………」
書く。
「…………」
書く。
「…………」
机へ突っ伏しかける。
「駄目だ駄目だ」
顔を上げる、横を見る。
モフは、完全に熟睡していた。
耳も力なく垂れ、
大きな尻尾を抱き枕代わりにしている。
「……羨ましい」
ソルフは溜め息。
そして、報告書へ戻った。
ーーー
翌日。
「お世話になりました!」
モフが宿の主人へ頭を下げる。
「おう。また来な!」
「今度は仕事抜きで来たいです!」
「俺も」
「ソルフさんはほとんど仕事抜きでしたよね?」
「ちゃんと仕事しただろ」
「最後だけ!」
荷物を背負った二人は、宿を後にする。
朝の街、昨日までと変わらない。
露店が開き、漁師が海へ出て、
観光客がビーチへ向かっている。
夜の海で、何が起きていたのかなど、
知らない者の方が多いだろう。
「失踪した人たち……」
モフがぽつり。
「戻ってきませんでしたね」
「……ああ」
ソルフの答えは短い。
船内で見た亡者たち、
あれが本当に失踪者だったのなら、
救うには、遅すぎた。
「でも」
ソルフが言う。
「次は出さない」
「……はい」
「そのために持って帰るんだ」
ポーチを軽く叩く。
手記。今回の事件の核。
あるいは、まだ何かを隠している代物。
「クルエールさん、嫌な顔しそうですね」
「何で?」
「謎の古代文書なんて持ち込むから」
「俺じゃなくて師匠に渡そう」
「責任逃れしないでください」
「支部長だぞ。責任取るのが仕事だ」
「それ本人の前で言えます?」
「…………」
「言えないんですね」
二人は歩く。
やがて、ビーチが遠ざかる。
亡霊船の噂、夜の咆哮、複数の失踪、不可解な足跡、
ファントムダンジョン。
そして、いにしえの魔族文字が綴られた、
一冊の手記。
まだ謎は残っている。
それでも、冒険者の仕事とは、時に、
全ての謎をその場で解き明かすことではない。
生きて帰り、見たものを伝え、
次へ繋げることでもある。
「帰ったら休むぞ」
「報告が先です」
「もう書いた」
「追加で聞き取りされますよ」
「……じゃあその後」
「支部長さんが次の依頼を――」
「それ以上言うな」
「ふふっ」
モフが笑う。
ソルフは嫌そうな顔をしながらも、
その歩みを止めなかった。
目的地は、
冒険者ギルド、ステラヴェイル支部。
水平線から昇った朝日と共に終わった、一つの依頼。
こうして、冒険者ソルフと、
そのサポーター、モフの、奇妙な“バカンス”は、
ようやく幕を閉じた。
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