その依頼、ビーチにつき -放浪冒険者の歩み方-
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↓前回
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窓から差し込む午後の日差しは、
じつに穏やかだった。
薄いカーテンを透かした光が床へ淡く伸び、
その上を、湯気だけが静かに揺れている。
ソルフは椅子の背に深く身体を預け、
ティーカップを片手に目を細めた。
「……平和だ」
ぽつり。
誰に聞かせるでもなく呟いてから、紅茶を一口。
ほのかな渋みと香草の香り。悪くない。
いや、素晴らしい。
地下調査を終えてから、数週間。結局あの一件も、
蓋を開けてみれば「機能を停止したはずの場所」で
起こるには少々面倒な騒ぎだった。
調査して。潜って。戦って。報告書を書いて。
帰って。また報告書の不備を指摘されて。
書き直して。
そうしてようやく巡ってきた、
何の予定もない休日である。
今日は剣を抜かない。魔獣も追わない。
地下にも潜らない。列車にも乗らない。
ギルドにも――絶対に行かない。
「こういうのでいいんだよ、こういうので」
卓上には焼き菓子が三つ。読みかけの本が一冊。
淹れたての紅茶。窓の外から聞こえるのは、
遠い街路を走る蒸気車の音と、
人々のざわめきくらい。
世界中の冒険者たちが無限迷宮へ我先にと飛び込み、
名誉だ財宝だ最深部だと騒いでいる、この御時世。
そんなものとは無縁の時間を過ごす。
なんと贅沢なことだろう。
ソルフは焼き菓子を一つ摘まんだ。口元へ運ぶ。
その瞬間だった。
――ドンドンドンドンッ!!
「…………」
手が止まった。玄関扉が震える。
聞こえなかったことにした。焼き菓子を口へ。
――ドンドンドンドンドンッ!!
「…………風だな」
強風だ。きっとそうだ。
今日の天気は穏やかだった気もするが、
世の中には局地的な突風というものがある。
「ソルフさーん!」
風が喋った。
「いますよねーっ!?」
「いないぞー」
「いるじゃないですか!」
しまった。ソルフは天井を仰いだ。
「ソルフさん! 開けてください!
ギルドからです!」
「俺は留守だ、モフ」
「本人が返事しちゃ駄目ですよ!」
再び猛烈なノック。
つい数分前まであれほど優雅だった空間に、
何ともいえない悲壮感が漂い始める。
ソルフはティーカップを置いた。
そして、残った紅茶を名残惜しそうに見つめる。
「……俺の休日」
小さく呟いてから、重い腰を上げた。
ーーー
「嫌だ」
「駄目です」
「今日は休日だぞ」
「知ってます」
「昨日も働いた」
「知ってます」
「一昨日も働いた」
「知ってます!」
ずるずるずる。
街路を行き交う人々が、
奇妙なものを見る目で二人を眺めていた。
先頭を歩くのはモフ。その両手は、
ソルフの右手をがっちり掴んでいる。
そして後方では、連行される罪人よろしく
ソルフが引きずられていた。
「モフ。俺たちは仲間だよな?」
「はい!」
「仲間なら、
たまには相手の意思を尊重するべきじゃないか?」
「ヴォリュン支部長から、
“何が何でも連れてこい”って言われました!」
「あのジジイ……」
「あと、
“途中で逃げようとしたら尻尾を掴め”って」
「俺に尻尾はない」
「そこは私も疑問でした!」
「疑問を持つ場所そこか?」
そんなやり取りを続けるうち、
煉瓦造りの大きな建物が見えてくる。
冒険者ギルド、ステラヴェイル支部。
重厚な正面扉の向こうからは、
今日も多くの声が飛び交っていた。
依頼を探す者。報酬を受け取る者。
仲間を募集する者。
無限迷宮の成果を自慢げに語る者。
掲示板には大小様々な依頼書が貼り付けられ、
その前を冒険者たちが行き交っている。
そんな喧騒の中へ足を踏み入れた瞬間。
「お疲れ様です、ソルフさん。お待ちしていました」
受付の奥から、一人の女性が声をかけてきた。
ステラヴェイル支部の受付嬢、クルエールである。
整えられた身なり。乱れなくまとめられた書類。
いかにも几帳面そうな雰囲気を
漂わせるミナモビトの女性だ。
「クルエール。聞いてくれ。今日は休みなんだ」
「存じています」
「なら帰っていい?」
「駄目です」
「即答かあ」
「支部長がお待ちです」
クルエールは表情一つ崩さず、
奥へ続く廊下を示した。
「お二人とも、支部長室へどうぞ」
「ほら、ソルフさん!」
「逃げ道が塞がれていく……」
観念したように肩を落とし、ソルフは歩き出した。
ーーー
支部長室の扉を開ける。
そこにいたのは、赤い肌をした大柄な男だった。
初老。だが衰えという言葉とはまるで無縁な体格。
机に向かっているだけだというのに、
その身体には現役冒険者だった頃の
名残が色濃く残っている。
冒険者ギルド、ステラヴェイル支部長。
ヴォリュン。
数々の危険な依頼を単独、
あるいはパーティーで達成し、
実力のみで現在の地位まで上り詰めた元冒険者。
そして――。
「来たか、我が愛弟子!」
ソルフの師匠でもある。
「帰る」
「待たんか!」
扉を閉めようとしたソルフへ、即座に怒声が飛んだ。
「せっかく来たんだ、座れ!」
「モフに拉致されて来たんだよ」
「人聞き悪いです!」
背後からモフが抗議する。
ソルフは渋々、応接用の椅子へ腰を下ろした。
「それで?
わざわざ休日の弟子を呼び出した理由は?」
「うむ!」
ヴォリュンが机の上から一枚の依頼書を取り上げる。
「新しいクエストだ!」
「弟子が来るなり、いきなり冗談はよせよ師匠」
「ハッハッハッハッハ!」
「笑い事じゃないんだけど」
ヴォリュンは満面の笑みを
浮かべながら立ち上がった。
巨体が迫ってくる。嫌な予感がした。
「いやいやいや、待て。話し合おう」
「ソルフ!」
「近い近い」
「頼んだぞ!」
――バン! バン!
「いってぇ!」
両肩を豪快に叩かれ、ソルフの身体が上下する。
「師匠! 肩! 肩が取れる!」
「若いうちは肩ぐらい取れても生えてくる!」
「俺はそういう種族じゃない!」
「ハッハッハ!」
「つまらないうえに笑えない!」
モフが横でおろおろしている。
ヴォリュンは満足したのか、再び自分の席へ戻った。
「……で、何なんだよ」
肩を擦りながらソルフが尋ねる。
するとヴォリュンの表情から、
先ほどまでの笑みが消えた。
「ムミゾリン大陸沿岸部の、
とある海浜地域で妙な報告が続いている」
「海?」
「ああ」
依頼書が机の上を滑り、ソルフの前で止まる。
彼はそれを拾い上げた。
「最初は近隣住民からの苦情だった。
深夜、沖合から馬鹿でかい咆哮が聞こえるとな」
「海の魔獣なんて珍しくもないだろ」
「それだけならな」
ヴォリュンが指を一本立てる。
「次に、
夜の海上で巨大な船影を見たという報告が出た」
「船?」
「古い海賊船のようだったそうだ。
帆柱が何本もある、馬鹿でかい奴だ」
「航路を間違えた船じゃなくて?」
「目撃者が沿岸警備へ報告し、確認に船を出した。
だが、何もいなかった」
ソルフの目がわずかに細くなる。
「それが一度なら見間違いで済む」
「ああ。だが目撃は複数回だ」
ヴォリュンはもう一本、指を立てた。
「そして三つ目」
一瞬だけ、室内の空気が重くなる。
「失踪者が出ている」
モフの耳がぴくりと動いた。
「……何人ですか?」
「現時点で確認できているだけで七人。
いずれも夜間、あの海岸周辺にいた者だ」
「七人……」
モフが表情を曇らせる。
ソルフは依頼書へ視線を落とした。
咆哮。巨大な海賊船の影。相次ぐ失踪。
どれか一つなら、大した話にはならない。
だが三つが同じ場所、同じ時期に重なっている。
「地元の連中は?」
「調査済みだ。成果なし。
ただし、夜間の海岸で魔獣らしき影を見た
という話もある。今のところ正体不明だ」
「それで俺か」
「それでお前だ」
ヴォリュンは迷うことなく答えた。
その声音に冗談はない。
「もっと腕の立つ冒険者だっているだろ。
無限迷宮から何人か引っ張ってくれば――」
「引っ張れんから困っとる」
「あー……」
「今はどいつもこいつもグランドダンジョン、
グランドダンジョンだ。
地方の厄介事を頼んでも二つ返事で断りおる」
ヴォリュンは鼻を鳴らした。
「名声が欲しい、深層へ行きたい、
未知の魔獣と戦いたい。結構なことだ。
儂も若ければ同じことをしたかもしれん」
そして腕を組む。
「だが冒険者ってのは、それだけじゃねえ」
その言葉に、モフは黙ってヴォリュンを見る。
「人が困っている場所へ行く。
それも立派な冒険者の仕事だ」
「……そういう真面目なこと言われると
断りづらいんだよな」
「狙って言っとるからな」
「台無しだよ」
ヴォリュンはニヤリと笑った。
「それに儂は、お前なら帰ってくると思っとる」
「…………」
「何が出ようとな」
ソルフはしばらく黙って依頼書を眺めた。
大きな溜め息。
その様子を見て、モフが恐る恐る尋ねる。
「ソルフさん……?」
「報酬」
「む?」
「上乗せ」
「何?」
「休日を潰された。危険手当も欲しい。
交通費は当然ギルド持ち。
現地での宿泊費と食費も経費。
あと帰ってきたら三日は休む」
「二日」
「四日」
「増やすな!」
「じゃあ三日」
「二日半!」
「半日って何だよ」
それから数十分。
支部長室では、
魔獣相手より遥かに不毛な攻防が続いた。
ーーー
「……くそ」
ギルドの正面扉が開く。ソルフが外へ出てきた。
その手には、しっかりと依頼書が握られている。
「また負けた……」
後ろからモフがついてくる。
「でも、受けてくれたんですね!」
「受けさせられたんだ」
「支部長さん、嬉しそうでしたね!」
「人の休日を潰して笑う男だぞ。
師匠じゃなかったら一発殴ってる」
「殴ったら勝てます?」
「……今のは無し」
ソルフは遠い目をした。
こうして。
束の間の休日は終わった。
ーーー
数日後。
ざざぁ――。ざざぁ――。
白い砂浜へ、波が寄せては返す。
どこまでも広がる青い海。
水平線には雲一つなく、照りつける太陽を
受けた海面が宝石のように煌めいている。
潮風が吹き抜け、
モフの白い髪と大きな尻尾を揺らした。
「わぁ……!」
目の前に広がる大海原を見て、モフの瞳が輝く。
「すごいです、ソルフさん! 海ですよ!」
「ああ」
「こんなに広いんですね……!」
「ああ!」
「依頼書だと、この辺りで失踪が――」
「ああ!」
妙に返事がいい。モフが振り向く。
そこには。
数日前とは打って変わって、
満面の笑みを浮かべたソルフがいた。
片手を腰へ当て。
もう片方の手を、堂々とモフへ差し出す。
「さてモフ!」
「はい?」
「バカンスと洒落込むぞ!」
「…………」
波の音。海鳥の声。吹き抜ける潮風。
モフはしばらく、
差し出された手とソルフの顔を交互に見つめた。
「…………え?」
ぽかん、と口を開けたまま。
新米サポーターの少女は、完全に固まっていた。
――深夜の咆哮。
――沖合に浮かぶ巨大な海賊船。
――七人の失踪者。
そんな不穏な噂が渦巻く海岸にて。
ソルフの新たなクエストは、
こうして実に緊張感なく幕を開けたのであった。
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窓から差し込む午後の日差しは、
じつに穏やかだった。
薄いカーテンを透かした光が床へ淡く伸び、
その上を、湯気だけが静かに揺れている。
ソルフは椅子の背に深く身体を預け、
ティーカップを片手に目を細めた。
「……平和だ」
ぽつり。
誰に聞かせるでもなく呟いてから、紅茶を一口。
ほのかな渋みと香草の香り。悪くない。
いや、素晴らしい。
地下調査を終えてから、数週間。結局あの一件も、
蓋を開けてみれば「機能を停止したはずの場所」で
起こるには少々面倒な騒ぎだった。
調査して。潜って。戦って。報告書を書いて。
帰って。また報告書の不備を指摘されて。
書き直して。
そうしてようやく巡ってきた、
何の予定もない休日である。
今日は剣を抜かない。魔獣も追わない。
地下にも潜らない。列車にも乗らない。
ギルドにも――絶対に行かない。
「こういうのでいいんだよ、こういうので」
卓上には焼き菓子が三つ。読みかけの本が一冊。
淹れたての紅茶。窓の外から聞こえるのは、
遠い街路を走る蒸気車の音と、
人々のざわめきくらい。
世界中の冒険者たちが無限迷宮へ我先にと飛び込み、
名誉だ財宝だ最深部だと騒いでいる、この御時世。
そんなものとは無縁の時間を過ごす。
なんと贅沢なことだろう。
ソルフは焼き菓子を一つ摘まんだ。口元へ運ぶ。
その瞬間だった。
――ドンドンドンドンッ!!
「…………」
手が止まった。玄関扉が震える。
聞こえなかったことにした。焼き菓子を口へ。
――ドンドンドンドンドンッ!!
「…………風だな」
強風だ。きっとそうだ。
今日の天気は穏やかだった気もするが、
世の中には局地的な突風というものがある。
「ソルフさーん!」
風が喋った。
「いますよねーっ!?」
「いないぞー」
「いるじゃないですか!」
しまった。ソルフは天井を仰いだ。
「ソルフさん! 開けてください!
ギルドからです!」
「俺は留守だ、モフ」
「本人が返事しちゃ駄目ですよ!」
再び猛烈なノック。
つい数分前まであれほど優雅だった空間に、
何ともいえない悲壮感が漂い始める。
ソルフはティーカップを置いた。
そして、残った紅茶を名残惜しそうに見つめる。
「……俺の休日」
小さく呟いてから、重い腰を上げた。
ーーー
「嫌だ」
「駄目です」
「今日は休日だぞ」
「知ってます」
「昨日も働いた」
「知ってます」
「一昨日も働いた」
「知ってます!」
ずるずるずる。
街路を行き交う人々が、
奇妙なものを見る目で二人を眺めていた。
先頭を歩くのはモフ。その両手は、
ソルフの右手をがっちり掴んでいる。
そして後方では、連行される罪人よろしく
ソルフが引きずられていた。
「モフ。俺たちは仲間だよな?」
「はい!」
「仲間なら、
たまには相手の意思を尊重するべきじゃないか?」
「ヴォリュン支部長から、
“何が何でも連れてこい”って言われました!」
「あのジジイ……」
「あと、
“途中で逃げようとしたら尻尾を掴め”って」
「俺に尻尾はない」
「そこは私も疑問でした!」
「疑問を持つ場所そこか?」
そんなやり取りを続けるうち、
煉瓦造りの大きな建物が見えてくる。
冒険者ギルド、ステラヴェイル支部。
重厚な正面扉の向こうからは、
今日も多くの声が飛び交っていた。
依頼を探す者。報酬を受け取る者。
仲間を募集する者。
無限迷宮の成果を自慢げに語る者。
掲示板には大小様々な依頼書が貼り付けられ、
その前を冒険者たちが行き交っている。
そんな喧騒の中へ足を踏み入れた瞬間。
「お疲れ様です、ソルフさん。お待ちしていました」
受付の奥から、一人の女性が声をかけてきた。
ステラヴェイル支部の受付嬢、クルエールである。
整えられた身なり。乱れなくまとめられた書類。
いかにも几帳面そうな雰囲気を
漂わせるミナモビトの女性だ。
「クルエール。聞いてくれ。今日は休みなんだ」
「存じています」
「なら帰っていい?」
「駄目です」
「即答かあ」
「支部長がお待ちです」
クルエールは表情一つ崩さず、
奥へ続く廊下を示した。
「お二人とも、支部長室へどうぞ」
「ほら、ソルフさん!」
「逃げ道が塞がれていく……」
観念したように肩を落とし、ソルフは歩き出した。
ーーー
支部長室の扉を開ける。
そこにいたのは、赤い肌をした大柄な男だった。
初老。だが衰えという言葉とはまるで無縁な体格。
机に向かっているだけだというのに、
その身体には現役冒険者だった頃の
名残が色濃く残っている。
冒険者ギルド、ステラヴェイル支部長。
ヴォリュン。
数々の危険な依頼を単独、
あるいはパーティーで達成し、
実力のみで現在の地位まで上り詰めた元冒険者。
そして――。
「来たか、我が愛弟子!」
ソルフの師匠でもある。
「帰る」
「待たんか!」
扉を閉めようとしたソルフへ、即座に怒声が飛んだ。
「せっかく来たんだ、座れ!」
「モフに拉致されて来たんだよ」
「人聞き悪いです!」
背後からモフが抗議する。
ソルフは渋々、応接用の椅子へ腰を下ろした。
「それで?
わざわざ休日の弟子を呼び出した理由は?」
「うむ!」
ヴォリュンが机の上から一枚の依頼書を取り上げる。
「新しいクエストだ!」
「弟子が来るなり、いきなり冗談はよせよ師匠」
「ハッハッハッハッハ!」
「笑い事じゃないんだけど」
ヴォリュンは満面の笑みを
浮かべながら立ち上がった。
巨体が迫ってくる。嫌な予感がした。
「いやいやいや、待て。話し合おう」
「ソルフ!」
「近い近い」
「頼んだぞ!」
――バン! バン!
「いってぇ!」
両肩を豪快に叩かれ、ソルフの身体が上下する。
「師匠! 肩! 肩が取れる!」
「若いうちは肩ぐらい取れても生えてくる!」
「俺はそういう種族じゃない!」
「ハッハッハ!」
「つまらないうえに笑えない!」
モフが横でおろおろしている。
ヴォリュンは満足したのか、再び自分の席へ戻った。
「……で、何なんだよ」
肩を擦りながらソルフが尋ねる。
するとヴォリュンの表情から、
先ほどまでの笑みが消えた。
「ムミゾリン大陸沿岸部の、
とある海浜地域で妙な報告が続いている」
「海?」
「ああ」
依頼書が机の上を滑り、ソルフの前で止まる。
彼はそれを拾い上げた。
「最初は近隣住民からの苦情だった。
深夜、沖合から馬鹿でかい咆哮が聞こえるとな」
「海の魔獣なんて珍しくもないだろ」
「それだけならな」
ヴォリュンが指を一本立てる。
「次に、
夜の海上で巨大な船影を見たという報告が出た」
「船?」
「古い海賊船のようだったそうだ。
帆柱が何本もある、馬鹿でかい奴だ」
「航路を間違えた船じゃなくて?」
「目撃者が沿岸警備へ報告し、確認に船を出した。
だが、何もいなかった」
ソルフの目がわずかに細くなる。
「それが一度なら見間違いで済む」
「ああ。だが目撃は複数回だ」
ヴォリュンはもう一本、指を立てた。
「そして三つ目」
一瞬だけ、室内の空気が重くなる。
「失踪者が出ている」
モフの耳がぴくりと動いた。
「……何人ですか?」
「現時点で確認できているだけで七人。
いずれも夜間、あの海岸周辺にいた者だ」
「七人……」
モフが表情を曇らせる。
ソルフは依頼書へ視線を落とした。
咆哮。巨大な海賊船の影。相次ぐ失踪。
どれか一つなら、大した話にはならない。
だが三つが同じ場所、同じ時期に重なっている。
「地元の連中は?」
「調査済みだ。成果なし。
ただし、夜間の海岸で魔獣らしき影を見た
という話もある。今のところ正体不明だ」
「それで俺か」
「それでお前だ」
ヴォリュンは迷うことなく答えた。
その声音に冗談はない。
「もっと腕の立つ冒険者だっているだろ。
無限迷宮から何人か引っ張ってくれば――」
「引っ張れんから困っとる」
「あー……」
「今はどいつもこいつもグランドダンジョン、
グランドダンジョンだ。
地方の厄介事を頼んでも二つ返事で断りおる」
ヴォリュンは鼻を鳴らした。
「名声が欲しい、深層へ行きたい、
未知の魔獣と戦いたい。結構なことだ。
儂も若ければ同じことをしたかもしれん」
そして腕を組む。
「だが冒険者ってのは、それだけじゃねえ」
その言葉に、モフは黙ってヴォリュンを見る。
「人が困っている場所へ行く。
それも立派な冒険者の仕事だ」
「……そういう真面目なこと言われると
断りづらいんだよな」
「狙って言っとるからな」
「台無しだよ」
ヴォリュンはニヤリと笑った。
「それに儂は、お前なら帰ってくると思っとる」
「…………」
「何が出ようとな」
ソルフはしばらく黙って依頼書を眺めた。
大きな溜め息。
その様子を見て、モフが恐る恐る尋ねる。
「ソルフさん……?」
「報酬」
「む?」
「上乗せ」
「何?」
「休日を潰された。危険手当も欲しい。
交通費は当然ギルド持ち。
現地での宿泊費と食費も経費。
あと帰ってきたら三日は休む」
「二日」
「四日」
「増やすな!」
「じゃあ三日」
「二日半!」
「半日って何だよ」
それから数十分。
支部長室では、
魔獣相手より遥かに不毛な攻防が続いた。
ーーー
「……くそ」
ギルドの正面扉が開く。ソルフが外へ出てきた。
その手には、しっかりと依頼書が握られている。
「また負けた……」
後ろからモフがついてくる。
「でも、受けてくれたんですね!」
「受けさせられたんだ」
「支部長さん、嬉しそうでしたね!」
「人の休日を潰して笑う男だぞ。
師匠じゃなかったら一発殴ってる」
「殴ったら勝てます?」
「……今のは無し」
ソルフは遠い目をした。
こうして。
束の間の休日は終わった。
ーーー
数日後。
ざざぁ――。ざざぁ――。
白い砂浜へ、波が寄せては返す。
どこまでも広がる青い海。
水平線には雲一つなく、照りつける太陽を
受けた海面が宝石のように煌めいている。
潮風が吹き抜け、
モフの白い髪と大きな尻尾を揺らした。
「わぁ……!」
目の前に広がる大海原を見て、モフの瞳が輝く。
「すごいです、ソルフさん! 海ですよ!」
「ああ」
「こんなに広いんですね……!」
「ああ!」
「依頼書だと、この辺りで失踪が――」
「ああ!」
妙に返事がいい。モフが振り向く。
そこには。
数日前とは打って変わって、
満面の笑みを浮かべたソルフがいた。
片手を腰へ当て。
もう片方の手を、堂々とモフへ差し出す。
「さてモフ!」
「はい?」
「バカンスと洒落込むぞ!」
「…………」
波の音。海鳥の声。吹き抜ける潮風。
モフはしばらく、
差し出された手とソルフの顔を交互に見つめた。
「…………え?」
ぽかん、と口を開けたまま。
新米サポーターの少女は、完全に固まっていた。
――深夜の咆哮。
――沖合に浮かぶ巨大な海賊船。
――七人の失踪者。
そんな不穏な噂が渦巻く海岸にて。
ソルフの新たなクエストは、
こうして実に緊張感なく幕を開けたのであった。
呪文
入力なし