亡霊船の影 -放浪冒険者の歩み方-
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↓前回
https://www.chichi-pui.com/posts/ab063329-faf5-4bbb-a134-b156c98e5259/
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世界中にダンジョンと魔獣が存在し、
それらへ挑む冒険者が一つの職業として定着した
現在のアイアスにおいても、
海という場所はいまだ未知の領域を多く残している。
もっとも。
昨日のソルフに、そんな未知へ挑む冒険者らしい
緊張感があったかと問われれば――。
答えは、間違いなく否であった。
ーーー
時は少し遡る。
「私、一人で聞き込みしてきますから!」
「おう。気をつけろよ」
「ソルフさんも仕事してください!」
「してるしてる」
「どう見ても昼寝です!」
ぷんぷんと怒りながら去っていくモフ。
白い尻尾が人混みの向こうへ消えるまで
見送ってから、ソルフは砂浜に寝転がったまま
片手を上げた。
「はいはい」
そして。しばらく、そのままでいた。
波の音。海水浴客の笑い声。
露店から漂ってくる焼けた魚介の匂い。
子供たちが砂浜を走り回り、沖では何人かの
若者が浮き輪につかまって騒いでいる。
どこをどう見ても平和なビーチだ。
ソルフは目を閉じる。
「…………」
十秒。二十秒。やがて片目だけを開けた。
先ほどまでモフに向けていた気の抜けた笑みは、
もうない。
「……さて」
起き上がる。
アロハシャツを脱ぎ、適当に砂の上へ放った。
そして。
何事もなかったかのように海へ向かう。
ぱしゃ。ぱしゃ。浅瀬を歩き。
腰まで浸かったところで、
一気に水中へ身体を滑り込ませた。
ーーー
昼間にも一度泳いでいる。
その時にも大まかな海の様子は見ていた。
だが、今度は違う。
ソルフは浜辺に沿って泳ぐのではなく、
まっすぐ沖へ向かった。
海水浴客の多い場所を抜け。徐々に水深が増し。
海底の砂が遠くなる。
「ふっ……」
一度水面へ顔を出す。息を整え、浜辺を振り返った。
かなり離れた。人の姿も小さい。
ここまで来れば、周囲に泳いでいる者はいない。
ソルフは大きく息を吸った。
そして。ざぶん。海中へ潜る。
水面から差し込む陽光が揺らめきながら、
青い海の中を照らしている。
ソルフはゆっくりと沈んでいった。
砂地。岩。海草。貝類。
目につく範囲に不自然な構造物はない。
沈没船も。巨大な魔獣の痕跡も。
魔術的な光も見当たらない。
何の変哲もない海底だった。
――ただ。
「…………」
ソルフの視線が動く。
岩陰から、小さな影の群れが飛び出した。
魚。いや。普通の魚ではない。
背中から短い棘を生やし、
鰭の一部が硬質化している。
小型の魚類系魔獣だ。
人間を積極的に襲うほどの大きさではない。
群れはソルフを避けるように泳ぎ去っていく。
その向こうにも、また別の群れ。
さらに下。岩場の周辺にも数匹。
ソルフは目で追う。数が多い。
――ような気がする。
もちろん、この海域における本来の生息数を
知らない以上、断定はできない。
だからこそ、確かめる必要がある。
ソルフは海底近くまで潜る。砂へ指をつけ。
岩肌を見る。大きな爪痕。引きずった跡。
巨大生物が這った痕跡。そういったものは――。
「…………」
ない。息が続かなくなってくる。
ソルフは海底を蹴った。
身体が一気に浮上していく。ざばっ!
「ぷはっ!」
水面へ顔を出し、大きく息を吸う。
「……なるほどねえ」
呟く。だが、その顔はまるで納得していなかった。
もう一度だけ海面の下を覗く。
小さな魔獣の影が泳いでいる。
「多い……のか?」
分からない。分からないなら。
知っている人間に聞けばいい。
ーーー
「あれ、お兄ちゃん。また来たのか?」
「美味かったからね」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか!」
先ほど魚介串を買った露店。
恰幅のいい店主が豪快に笑う。
ソルフは濡れた髪のまま店先へ立っていた。
「じゃ、もう一本」
「あいよ!」
「……ちなみにさ」
「ん?」
店主が串を焼きながら顔を上げる。
「これって、この辺で獲れたやつ?」
「ああ。全部じゃねえけどな。
貝はそこの岩場だし、魚も大体この近海だ」
「へえ」
ソルフは焼き台を見る。
串には魚の切り身と、
小型の魔獣らしき肉が交互に刺さっている。
「この小さい魔獣も?」
「そいつか?」
「ああ」
「そりゃそうだ。沖にいくらでもいるぞ」
「やっぱり多いんだ」
「まあな。昔からいる」
「よく食うの?」
「食う食う。骨がちょっと面倒だが、焼けば美味い。揚げてもいける」
「じゃあ、珍しくはない」
「全然」
店主は串を裏返す。じゅう、と脂が落ちた。
「最近、増えたりしてない?」
「最近?」
男が首を傾げる。
「そうだなぁ……」
少し考える。
「漁師じゃねえから正確なことは知らんが、
浜の近くまで来る奴は前より見る気がするな」
「浜まで?」
「ああ。ガキどもが浅瀬で捕まえたって
持ってくることもある。
まあ、小魚なんて潮次第で動くからな。
そこまで珍しい話でもねえよ」
「ふーん」
「兄ちゃん、魚に興味あんのか?」
「ちょっとね」
「だったら漁師に聞いた方が詳しいぞ」
「いや、十分」
店主が焼き上がった串を差し出した。
「ほら」
「ありがと」
銅貨を置き。一口。
「うま」
「だろ?」
ソルフはその場を離れようとして。
「あ、そうだ」
「まだ何か?」
「夜も店出してる?」
「いや。日が落ちる前には片付ける」
「この辺の店、みんな?」
「大体な」
「夜の浜は?」
その瞬間。店主の表情がほんの少し変わった。
「……最近は行かねえ方がいい」
「やっぱり?」
「例の噂があるからな」
「海から聞こえる声」
「それもある」
男は声を小さくした。
「人も消えてる」
「…………」
「本当かどうか知らねえが、
夜中に変な船を見たって奴もいる。
観光客相手にはあまり言うなって
話になってるんだ。商売にならなくなるからな」
「なるほど」
「兄ちゃんも遊びに来たんなら、夜は宿にいろ」
ソルフは串を一口齧る。
そして、にこりと笑った。
「そうするよ」
ーーー
その後。ソルフはビーチを歩いた。
端から端まで。ゆっくり。時折立ち止まりながら。
浜の形。波打ち際。岩場。
海へ突き出した古い桟橋。
露店の位置。宿泊施設。夜間にも使われそうな道。
人目につきにくい場所。沖がよく見える場所。
何度も海と陸を見比べる。
「…………」
一見すれば、観光客が散歩しているだけ。実際。
「お兄さん、昼間ナンパしてた人でしょ?」
などと、通りすがりの女性に笑われ。
「人違いです」
「絶対そうじゃん!」
と返されたりもした。だが。
ソルフの目は、時々ふっと細くなる。
何かを探している。あるいは。
何かが“ない”ことを確かめている。
そうしてビーチを一周した頃。日が傾いていた。
ーーー
夕暮れ。ソルフは一人、砂浜に腰を下ろしていた。
水平線へ沈んでいく太陽。赤く染まる海。
海鳥の姿が黒い影となって遠くを横切っていく。
「咆哮」
ぽつり。
「船」
波が寄せる。
「失踪」
再び返る。
「小さいのが浅瀬に寄ってる」
ソルフは膝の上で指を組んだ。
「……さて」
目を細める。遥か沖。何もない。
それでも。しばらく海を見続けた。
やがて背後から。
「ソルフさーん!」
聞き慣れた声がした。
ソルフの表情が、ふっと緩む。
振り向かないまま待つ。
「……ソルフさん」
「ん?」
「そろそろ宿に行きましょう」
「ああ」
もう一度。海を見る。
「…………」
そして立ち上がり。モフの頭へ手を置いた。
ぽんっ。
「宿に行こう」
「……はい」
それ以上は何も言わなかった。
ーーー
――そして、二日目の早朝。
まだ空は暗い。
東の空だけが、僅かに白み始めていた。
人気のない道を一人の青年が歩いている。
昨日のアロハシャツと、腰に長剣を下げた。
ソルフだった。
「……眠い」
欠伸をしながら歩く。モフはまだ眠っている。
起こす理由もない。やがて、海が見えてきた。
昼間とはまるで違うビーチ。露店は閉じ、
人影はなく、灯りもほとんどない。
聞こえるのは波の音だけ。
ざざぁ……、ざざぁ……。
ソルフは砂浜へ降りる。
「…………」
まず、何もせず歩いた。
昨日と同じように、端から端まで。
ただし今回は、海を見る時間よりも
足元を見る時間の方が長い。
砂に残る跡。夜間に歩いた者。漂着物。
波がどこまで上がったか。砂の湿り方。
「……ん?」
足が止まった。波打ち際から少し離れた場所。
そこに、足跡がある。
一つ、二つ、三つ…人のものだ。
裸足。だが。
「濡れてる」
ソルフがしゃがみ込む。
足跡の底だけ、周囲より砂の色が濃い。
濡れた足で歩いた跡。
そして、その足跡は、海へ向かって続いていた。
「…………」
一歩。また一歩。真っ直ぐに。
やがて波打ち際へ入り。
そのまま海の中へ消えている。
ソルフは足跡の横を歩く。足跡を踏まないように。
「こっちから……」
視線を浜側へ戻す。
「…………」
さらに周囲を見る。別の足跡、靴跡。
昨日日中についたらしいもの。
だが、今目の前にある濡れた裸足の跡とは違う。
ソルフは顎へ手を添えた。
「夜に海へ入った?」
波が打ち寄せる。当然返事はない。
「それだけなら酔っ払いでもいるか」
そう呟く。けれど目は笑っていない。
足跡の幅、歩幅、乱れていない。
走った様子もない。迷った形跡もない。
ただ、海へ向かっている。
「…………」
ソルフは立ち上がった。
沖を見る。まだ暗い海、黒い水平線。
何も見えない。だが昨日とは違い。
ソルフは少しだけ口元を歪めた。
「今晩あるかもな」
その声は、波音へ消えていった。
ーーー
「おかえりなさい」
「ただいま」
宿の部屋へ戻ると、モフは既に起きていた。
小さな机に朝食を並べ、一人でパンを齧っている。
ソルフを見るなり。
じとぉ……。
「何だよ」
「剣」
「ん?」
「持って出てましたよね」
「そうだな」
「朝早くから?」
「ああ」
「海に?」
「まあ」
モフの耳が立つ。
「ようやく仕事する気になりましたか」
「いや」
ソルフは椅子へ座った。
「ただ散歩に行ってただけだよ」
「剣持って!?」
「朝の海は危ないから」
「昨日ほぼ裸で沖まで泳いでた人が何言ってるんですか!」
「昨日は昼だ」
「そういう問題ですか!?」
ソルフはモフの抗議を聞き流し、パンを手に取る。
「あ。これ食っていい?」
「ソルフさんの分です!」
「ありがと」
「……もう」
モフは頬を膨らませる。
少しの間、二人は黙って朝食を食べた。
「今日どうします?」
モフが尋ねる。
「んー?」
「調査です。昨日の続き」
「そうだなあ」
「私はもう少し聞き込みします。
昨日は実際に船を見た人に会えませんでしたから」
「偉いな」
「ソルフさんは?」
「俺?」
スープを一口。少し考え。
「昨日遊び過ぎて疲れたから、
今日は宿でゆっくりしてるよ」
「…………」
モフの動きが止まった。
「ソルフさん」
「ん?」
「もう一回言ってください」
「宿でゆっくり――」
「昨日遊んだから今日休むって何ですかぁっ!?」
朝っぱらから、モフの叫びが宿に響いた。
ーーー
そして、信じ難いことに、ソルフは宣言を実行した。
「…………」
昼、宿。ベッドの上。
ごろん… 本を読む。
ごろり… 昼寝する。
起きる。水を飲む。また寝る。
「…………平和だ」
数日前、
自宅で同じようなことを言っていた男である。
一方、モフは朝食後から街へ出ていた。
昨日とは別の釣り人。漁師。沿岸に住む住民。
宿の従業員。夜間警備をしている者。
可能な範囲で話を聞いて回る。
しかし。
「大きな声?」
「聞いたよ」
「船? 俺は見てないな」
「失踪した奴なら知ってる」
「夜は浜に行かない方がいい」
「海賊船だって?」
「幽霊船だって噂もあるぞ」
集まる情報は、やはり、ほとんど同じ。
「うぅ……」
モフは手帳を睨む。
「進んでる気がしません……」
ソルフは宿で寝ている。
そう思うと、なおさら腹が立ってきた。
ーーー
日が沈み、夜になった。
夕食を終え、風呂も済ませ。
「じゃあ、おやすみなさい」
モフが寝床へ向かおうとした時だった。
「モフ」
「はい?」
ソルフが立ち上がる。
壁へ立てかけていた剣を腰へ下げた。
「ちょっと出るぞ」
「……今からですか?」
「ああ」
「どこへ?」
「ビーチ」
モフの耳がぴくりと動く。
「夜の?」
「夜の」
「…………」
数秒。モフはじっとソルフを見つめた。
「何か分かったんですか?」
「んー」
「その顔、絶対何か分かってますよね」
「行けば分かるかもしれない」
「もう!」
モフは急いで外出の準備を始めた。
ーーー
深夜。二人は人気の消えた通りを歩いていた。
昼間とは違い、観光客の声も、
露店の呼び込みも、子供の笑い声もない。
ただ、遠くから。
ざざぁ……。
海の音だけが聞こえる。
「ソルフさん」
「ん?」
「朝、本当は何してたんですか?」
「散歩」
「まだ言います?」
「健康にいいぞ」
「剣持って健康散歩する人初めて見ました」
「この辺じゃいるかもしれない」
「いませんよ」
浜へ続く坂道を下る。
潮の匂いが強くなる。
「……でも」
モフが少し声を落とした。
「本当に出るんですかね」
「何が?」
「船です」
「さあ」
「さあって……」
砂浜へ出る。夜の海。
月明かりが水面に細長く伸びている。
波の先は、闇。
モフは思わずソルフへ少し近づいた。
「……暗いですね」
「夜だからな」
「そうじゃなくて……」
昼間、あれほど明るかった場所。
同じビーチとは思えない。
ソルフは辺りを見回す。
そして。
足を止めた。
「…………」
「ソルフさん?」
返事がない。その目は、海を見ている。
モフも視線を追った。
「…………え?」
最初、それが何なのか分からなかった。
水平線よりも手前、沖合、黒い海の中に。
巨大な影がある。
「…………」
モフの瞳が大きくなる。
船、大きな船だった。現代の蒸気船ではない。
煙突もない。外輪もない。幾本もの帆柱。
垂れ下がった帆。高く反り上がる船首。
まるで何百年も前の物語から抜け出してきたような。
巨大な帆船。
「う……そ……」
モフが声を漏らす。
「本当に……」
いる。噂通り。
海賊船のような巨大な船影が。
夜の沖に浮かんでいる。
だが。
「ソルフさん……」
「ああ」
「灯りが……」
一つもない、巨大な船だというのに。
甲板にも、船室にも。灯火の一つすら見えない。
そして何より。
「音がしません……」
波はある。風も吹いている。
にもかかわらず。
帆はほとんど揺れていない。
船体が波を切る音もしない。
動いているのか。止まっているのか。
それすら分からない。
ただ、黒い影だけが。
海の上に存在している。
「……亡霊船」
モフが呟いた。
町で聞いた噂。冗談半分で語られていた言葉。
それが今は、まるで現実味を帯びて響いた。
「…………」
ソルフは何も答えない。右手を剣の柄へ添える。
昨日、海で遊び。砂遊びをし。買い食いし。
ナンパまでしていた男の顔は。
そこにはもうなかった。
ただ一人の冒険者として、静かに。
沖の船を見据えている。
ざざぁ……。波が寄せる。
ざざぁ……。波が引く。
その時、雲が月へかかった。
一瞬、辺りが暗闇に沈む。
「……っ」
モフが目を凝らす。
そして、再び月明かりが海を照らした時。
船影は、先ほどよりも、僅かに。
――岸へ近づいているように見えた。
「ソルフさん……?」
「ああ」
ソルフが小さく答える。その目は船から離れない。
「どうやら」
腰の剣をほんの少しだけ鞘から抜く。
「バカンスは終わりみたいだな」
深夜の海。人の消える浜辺。
海へ続く、濡れた足跡。
そして、音もなく沖に佇む、巨大な亡霊船。
二人の前に、ようやく。
今回の依頼、その異変の影が姿を現した。
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世界中にダンジョンと魔獣が存在し、
それらへ挑む冒険者が一つの職業として定着した
現在のアイアスにおいても、
海という場所はいまだ未知の領域を多く残している。
もっとも。
昨日のソルフに、そんな未知へ挑む冒険者らしい
緊張感があったかと問われれば――。
答えは、間違いなく否であった。
ーーー
時は少し遡る。
「私、一人で聞き込みしてきますから!」
「おう。気をつけろよ」
「ソルフさんも仕事してください!」
「してるしてる」
「どう見ても昼寝です!」
ぷんぷんと怒りながら去っていくモフ。
白い尻尾が人混みの向こうへ消えるまで
見送ってから、ソルフは砂浜に寝転がったまま
片手を上げた。
「はいはい」
そして。しばらく、そのままでいた。
波の音。海水浴客の笑い声。
露店から漂ってくる焼けた魚介の匂い。
子供たちが砂浜を走り回り、沖では何人かの
若者が浮き輪につかまって騒いでいる。
どこをどう見ても平和なビーチだ。
ソルフは目を閉じる。
「…………」
十秒。二十秒。やがて片目だけを開けた。
先ほどまでモフに向けていた気の抜けた笑みは、
もうない。
「……さて」
起き上がる。
アロハシャツを脱ぎ、適当に砂の上へ放った。
そして。
何事もなかったかのように海へ向かう。
ぱしゃ。ぱしゃ。浅瀬を歩き。
腰まで浸かったところで、
一気に水中へ身体を滑り込ませた。
ーーー
昼間にも一度泳いでいる。
その時にも大まかな海の様子は見ていた。
だが、今度は違う。
ソルフは浜辺に沿って泳ぐのではなく、
まっすぐ沖へ向かった。
海水浴客の多い場所を抜け。徐々に水深が増し。
海底の砂が遠くなる。
「ふっ……」
一度水面へ顔を出す。息を整え、浜辺を振り返った。
かなり離れた。人の姿も小さい。
ここまで来れば、周囲に泳いでいる者はいない。
ソルフは大きく息を吸った。
そして。ざぶん。海中へ潜る。
水面から差し込む陽光が揺らめきながら、
青い海の中を照らしている。
ソルフはゆっくりと沈んでいった。
砂地。岩。海草。貝類。
目につく範囲に不自然な構造物はない。
沈没船も。巨大な魔獣の痕跡も。
魔術的な光も見当たらない。
何の変哲もない海底だった。
――ただ。
「…………」
ソルフの視線が動く。
岩陰から、小さな影の群れが飛び出した。
魚。いや。普通の魚ではない。
背中から短い棘を生やし、
鰭の一部が硬質化している。
小型の魚類系魔獣だ。
人間を積極的に襲うほどの大きさではない。
群れはソルフを避けるように泳ぎ去っていく。
その向こうにも、また別の群れ。
さらに下。岩場の周辺にも数匹。
ソルフは目で追う。数が多い。
――ような気がする。
もちろん、この海域における本来の生息数を
知らない以上、断定はできない。
だからこそ、確かめる必要がある。
ソルフは海底近くまで潜る。砂へ指をつけ。
岩肌を見る。大きな爪痕。引きずった跡。
巨大生物が這った痕跡。そういったものは――。
「…………」
ない。息が続かなくなってくる。
ソルフは海底を蹴った。
身体が一気に浮上していく。ざばっ!
「ぷはっ!」
水面へ顔を出し、大きく息を吸う。
「……なるほどねえ」
呟く。だが、その顔はまるで納得していなかった。
もう一度だけ海面の下を覗く。
小さな魔獣の影が泳いでいる。
「多い……のか?」
分からない。分からないなら。
知っている人間に聞けばいい。
ーーー
「あれ、お兄ちゃん。また来たのか?」
「美味かったからね」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか!」
先ほど魚介串を買った露店。
恰幅のいい店主が豪快に笑う。
ソルフは濡れた髪のまま店先へ立っていた。
「じゃ、もう一本」
「あいよ!」
「……ちなみにさ」
「ん?」
店主が串を焼きながら顔を上げる。
「これって、この辺で獲れたやつ?」
「ああ。全部じゃねえけどな。
貝はそこの岩場だし、魚も大体この近海だ」
「へえ」
ソルフは焼き台を見る。
串には魚の切り身と、
小型の魔獣らしき肉が交互に刺さっている。
「この小さい魔獣も?」
「そいつか?」
「ああ」
「そりゃそうだ。沖にいくらでもいるぞ」
「やっぱり多いんだ」
「まあな。昔からいる」
「よく食うの?」
「食う食う。骨がちょっと面倒だが、焼けば美味い。揚げてもいける」
「じゃあ、珍しくはない」
「全然」
店主は串を裏返す。じゅう、と脂が落ちた。
「最近、増えたりしてない?」
「最近?」
男が首を傾げる。
「そうだなぁ……」
少し考える。
「漁師じゃねえから正確なことは知らんが、
浜の近くまで来る奴は前より見る気がするな」
「浜まで?」
「ああ。ガキどもが浅瀬で捕まえたって
持ってくることもある。
まあ、小魚なんて潮次第で動くからな。
そこまで珍しい話でもねえよ」
「ふーん」
「兄ちゃん、魚に興味あんのか?」
「ちょっとね」
「だったら漁師に聞いた方が詳しいぞ」
「いや、十分」
店主が焼き上がった串を差し出した。
「ほら」
「ありがと」
銅貨を置き。一口。
「うま」
「だろ?」
ソルフはその場を離れようとして。
「あ、そうだ」
「まだ何か?」
「夜も店出してる?」
「いや。日が落ちる前には片付ける」
「この辺の店、みんな?」
「大体な」
「夜の浜は?」
その瞬間。店主の表情がほんの少し変わった。
「……最近は行かねえ方がいい」
「やっぱり?」
「例の噂があるからな」
「海から聞こえる声」
「それもある」
男は声を小さくした。
「人も消えてる」
「…………」
「本当かどうか知らねえが、
夜中に変な船を見たって奴もいる。
観光客相手にはあまり言うなって
話になってるんだ。商売にならなくなるからな」
「なるほど」
「兄ちゃんも遊びに来たんなら、夜は宿にいろ」
ソルフは串を一口齧る。
そして、にこりと笑った。
「そうするよ」
ーーー
その後。ソルフはビーチを歩いた。
端から端まで。ゆっくり。時折立ち止まりながら。
浜の形。波打ち際。岩場。
海へ突き出した古い桟橋。
露店の位置。宿泊施設。夜間にも使われそうな道。
人目につきにくい場所。沖がよく見える場所。
何度も海と陸を見比べる。
「…………」
一見すれば、観光客が散歩しているだけ。実際。
「お兄さん、昼間ナンパしてた人でしょ?」
などと、通りすがりの女性に笑われ。
「人違いです」
「絶対そうじゃん!」
と返されたりもした。だが。
ソルフの目は、時々ふっと細くなる。
何かを探している。あるいは。
何かが“ない”ことを確かめている。
そうしてビーチを一周した頃。日が傾いていた。
ーーー
夕暮れ。ソルフは一人、砂浜に腰を下ろしていた。
水平線へ沈んでいく太陽。赤く染まる海。
海鳥の姿が黒い影となって遠くを横切っていく。
「咆哮」
ぽつり。
「船」
波が寄せる。
「失踪」
再び返る。
「小さいのが浅瀬に寄ってる」
ソルフは膝の上で指を組んだ。
「……さて」
目を細める。遥か沖。何もない。
それでも。しばらく海を見続けた。
やがて背後から。
「ソルフさーん!」
聞き慣れた声がした。
ソルフの表情が、ふっと緩む。
振り向かないまま待つ。
「……ソルフさん」
「ん?」
「そろそろ宿に行きましょう」
「ああ」
もう一度。海を見る。
「…………」
そして立ち上がり。モフの頭へ手を置いた。
ぽんっ。
「宿に行こう」
「……はい」
それ以上は何も言わなかった。
ーーー
――そして、二日目の早朝。
まだ空は暗い。
東の空だけが、僅かに白み始めていた。
人気のない道を一人の青年が歩いている。
昨日のアロハシャツと、腰に長剣を下げた。
ソルフだった。
「……眠い」
欠伸をしながら歩く。モフはまだ眠っている。
起こす理由もない。やがて、海が見えてきた。
昼間とはまるで違うビーチ。露店は閉じ、
人影はなく、灯りもほとんどない。
聞こえるのは波の音だけ。
ざざぁ……、ざざぁ……。
ソルフは砂浜へ降りる。
「…………」
まず、何もせず歩いた。
昨日と同じように、端から端まで。
ただし今回は、海を見る時間よりも
足元を見る時間の方が長い。
砂に残る跡。夜間に歩いた者。漂着物。
波がどこまで上がったか。砂の湿り方。
「……ん?」
足が止まった。波打ち際から少し離れた場所。
そこに、足跡がある。
一つ、二つ、三つ…人のものだ。
裸足。だが。
「濡れてる」
ソルフがしゃがみ込む。
足跡の底だけ、周囲より砂の色が濃い。
濡れた足で歩いた跡。
そして、その足跡は、海へ向かって続いていた。
「…………」
一歩。また一歩。真っ直ぐに。
やがて波打ち際へ入り。
そのまま海の中へ消えている。
ソルフは足跡の横を歩く。足跡を踏まないように。
「こっちから……」
視線を浜側へ戻す。
「…………」
さらに周囲を見る。別の足跡、靴跡。
昨日日中についたらしいもの。
だが、今目の前にある濡れた裸足の跡とは違う。
ソルフは顎へ手を添えた。
「夜に海へ入った?」
波が打ち寄せる。当然返事はない。
「それだけなら酔っ払いでもいるか」
そう呟く。けれど目は笑っていない。
足跡の幅、歩幅、乱れていない。
走った様子もない。迷った形跡もない。
ただ、海へ向かっている。
「…………」
ソルフは立ち上がった。
沖を見る。まだ暗い海、黒い水平線。
何も見えない。だが昨日とは違い。
ソルフは少しだけ口元を歪めた。
「今晩あるかもな」
その声は、波音へ消えていった。
ーーー
「おかえりなさい」
「ただいま」
宿の部屋へ戻ると、モフは既に起きていた。
小さな机に朝食を並べ、一人でパンを齧っている。
ソルフを見るなり。
じとぉ……。
「何だよ」
「剣」
「ん?」
「持って出てましたよね」
「そうだな」
「朝早くから?」
「ああ」
「海に?」
「まあ」
モフの耳が立つ。
「ようやく仕事する気になりましたか」
「いや」
ソルフは椅子へ座った。
「ただ散歩に行ってただけだよ」
「剣持って!?」
「朝の海は危ないから」
「昨日ほぼ裸で沖まで泳いでた人が何言ってるんですか!」
「昨日は昼だ」
「そういう問題ですか!?」
ソルフはモフの抗議を聞き流し、パンを手に取る。
「あ。これ食っていい?」
「ソルフさんの分です!」
「ありがと」
「……もう」
モフは頬を膨らませる。
少しの間、二人は黙って朝食を食べた。
「今日どうします?」
モフが尋ねる。
「んー?」
「調査です。昨日の続き」
「そうだなあ」
「私はもう少し聞き込みします。
昨日は実際に船を見た人に会えませんでしたから」
「偉いな」
「ソルフさんは?」
「俺?」
スープを一口。少し考え。
「昨日遊び過ぎて疲れたから、
今日は宿でゆっくりしてるよ」
「…………」
モフの動きが止まった。
「ソルフさん」
「ん?」
「もう一回言ってください」
「宿でゆっくり――」
「昨日遊んだから今日休むって何ですかぁっ!?」
朝っぱらから、モフの叫びが宿に響いた。
ーーー
そして、信じ難いことに、ソルフは宣言を実行した。
「…………」
昼、宿。ベッドの上。
ごろん… 本を読む。
ごろり… 昼寝する。
起きる。水を飲む。また寝る。
「…………平和だ」
数日前、
自宅で同じようなことを言っていた男である。
一方、モフは朝食後から街へ出ていた。
昨日とは別の釣り人。漁師。沿岸に住む住民。
宿の従業員。夜間警備をしている者。
可能な範囲で話を聞いて回る。
しかし。
「大きな声?」
「聞いたよ」
「船? 俺は見てないな」
「失踪した奴なら知ってる」
「夜は浜に行かない方がいい」
「海賊船だって?」
「幽霊船だって噂もあるぞ」
集まる情報は、やはり、ほとんど同じ。
「うぅ……」
モフは手帳を睨む。
「進んでる気がしません……」
ソルフは宿で寝ている。
そう思うと、なおさら腹が立ってきた。
ーーー
日が沈み、夜になった。
夕食を終え、風呂も済ませ。
「じゃあ、おやすみなさい」
モフが寝床へ向かおうとした時だった。
「モフ」
「はい?」
ソルフが立ち上がる。
壁へ立てかけていた剣を腰へ下げた。
「ちょっと出るぞ」
「……今からですか?」
「ああ」
「どこへ?」
「ビーチ」
モフの耳がぴくりと動く。
「夜の?」
「夜の」
「…………」
数秒。モフはじっとソルフを見つめた。
「何か分かったんですか?」
「んー」
「その顔、絶対何か分かってますよね」
「行けば分かるかもしれない」
「もう!」
モフは急いで外出の準備を始めた。
ーーー
深夜。二人は人気の消えた通りを歩いていた。
昼間とは違い、観光客の声も、
露店の呼び込みも、子供の笑い声もない。
ただ、遠くから。
ざざぁ……。
海の音だけが聞こえる。
「ソルフさん」
「ん?」
「朝、本当は何してたんですか?」
「散歩」
「まだ言います?」
「健康にいいぞ」
「剣持って健康散歩する人初めて見ました」
「この辺じゃいるかもしれない」
「いませんよ」
浜へ続く坂道を下る。
潮の匂いが強くなる。
「……でも」
モフが少し声を落とした。
「本当に出るんですかね」
「何が?」
「船です」
「さあ」
「さあって……」
砂浜へ出る。夜の海。
月明かりが水面に細長く伸びている。
波の先は、闇。
モフは思わずソルフへ少し近づいた。
「……暗いですね」
「夜だからな」
「そうじゃなくて……」
昼間、あれほど明るかった場所。
同じビーチとは思えない。
ソルフは辺りを見回す。
そして。
足を止めた。
「…………」
「ソルフさん?」
返事がない。その目は、海を見ている。
モフも視線を追った。
「…………え?」
最初、それが何なのか分からなかった。
水平線よりも手前、沖合、黒い海の中に。
巨大な影がある。
「…………」
モフの瞳が大きくなる。
船、大きな船だった。現代の蒸気船ではない。
煙突もない。外輪もない。幾本もの帆柱。
垂れ下がった帆。高く反り上がる船首。
まるで何百年も前の物語から抜け出してきたような。
巨大な帆船。
「う……そ……」
モフが声を漏らす。
「本当に……」
いる。噂通り。
海賊船のような巨大な船影が。
夜の沖に浮かんでいる。
だが。
「ソルフさん……」
「ああ」
「灯りが……」
一つもない、巨大な船だというのに。
甲板にも、船室にも。灯火の一つすら見えない。
そして何より。
「音がしません……」
波はある。風も吹いている。
にもかかわらず。
帆はほとんど揺れていない。
船体が波を切る音もしない。
動いているのか。止まっているのか。
それすら分からない。
ただ、黒い影だけが。
海の上に存在している。
「……亡霊船」
モフが呟いた。
町で聞いた噂。冗談半分で語られていた言葉。
それが今は、まるで現実味を帯びて響いた。
「…………」
ソルフは何も答えない。右手を剣の柄へ添える。
昨日、海で遊び。砂遊びをし。買い食いし。
ナンパまでしていた男の顔は。
そこにはもうなかった。
ただ一人の冒険者として、静かに。
沖の船を見据えている。
ざざぁ……。波が寄せる。
ざざぁ……。波が引く。
その時、雲が月へかかった。
一瞬、辺りが暗闇に沈む。
「……っ」
モフが目を凝らす。
そして、再び月明かりが海を照らした時。
船影は、先ほどよりも、僅かに。
――岸へ近づいているように見えた。
「ソルフさん……?」
「ああ」
ソルフが小さく答える。その目は船から離れない。
「どうやら」
腰の剣をほんの少しだけ鞘から抜く。
「バカンスは終わりみたいだな」
深夜の海。人の消える浜辺。
海へ続く、濡れた足跡。
そして、音もなく沖に佇む、巨大な亡霊船。
二人の前に、ようやく。
今回の依頼、その異変の影が姿を現した。
呪文
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