1336年7月4日。(延元元年/建武3年5月25日)
南朝側の武将・楠木正成は湊川の戦いで命を落とします。


河内の土豪に過ぎない身でありながら後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒に最初期から加担していた楠木正成。
倒幕実現後は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、建武の新政における多くの要職を歴任しました。
しかし建武の親政は「理想は高く、現実は厳しく」な政策であり、程なく多くの勢力から不満が噴出してしまいます。
(一般的には公家重視で軽視された武士が不満を抱いたと言われますが実態はさらに複雑です)
鎌倉幕府残党の挙兵(某若君のことです)を鎮圧した足利尊氏はそんな不満を持つ勢力に応える形で後醍醐天皇から離反。
後醍醐天皇とは別系統の皇族にあたる光厳上皇を仰いで対立することになります。


正成は京へと進撃してきた尊氏を撃退したものの、西国へ敗走する尊氏に多くの武将が随行していった様子を目撃して今は相手方に徳ありとして和睦を上申しますが、周囲の公家たちに笑われるだけでした。
3か月ほどを経て多くの西国武将を味方につけた尊氏は大軍勢となり、再度京へと進軍してきました。
正成は自分の得意とするゲリラ戦術を活かすため敢えて尊氏を京に誘き寄せて挟撃する作戦を提案しますが、体面を重んじる周囲の公家にはやはり受け入れられませんでした。
結局は兵庫湊川の地で新田義貞と共に尊氏を迎え撃つことになります。
この合戦は最初から勝ち目が無いと両名とも察しており、前夜に別れの酒を酌み交わしたとも伝わります。


尊氏の軍は陸上・海上共に数万の大軍勢であり、挟撃作戦を提案した筈の自分たちが挟撃を受けるという皮肉な布陣になりました。
(なお『太平記』では兵力50万以上と書かれていますが流石に盛りすぎだろというのが一般的見解です😅)
正成は僅か700騎の手勢で突撃を敢行しましたが平地での戦闘ではゲリラ戦術を活かせる筈もなく敗退。
残った僅かな手勢で湊川の東にある民家に籠もり、そこで郎党共々自害して果てます。
義貞も尊氏軍の大軍勢の前に力及ばず、後醍醐天皇ともども京を捨てることになりました。


楠木正成の再評価は江戸時代に徳川光圀が南朝を正当と見做したことでようやく始まりました。
幕末になって尊王論が広まると正成は『忠臣』として勤王志士からの信仰対象になります。
そしてそれは明治維新によって具体的な祭祀運動へと発展し、遂には政府主導によって湊川神社という形で1872年に建立されることになりました。


「今度は湊川だよ」
太平洋戦争末期に出撃した諸将の中には、このような言葉を残した者が少なからず伝わってます。
それは「靖国で会おう」という言葉だけでは伝えられない、自身の犠牲が勝利に何ら貢献しないことへのやるせなさも同時に籠められた台詞だったのかもしれません。

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