6月11日は賤ケ岳の戦いの勝敗が決した日
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1583年6月11日(天正11年4月21日)。
この日に決着が付いた賤ケ岳の戦いは、金森長近の決断が大きな影響を与えていました。
……まぁ大抵の場合は前田利家ばかりクローズアップされて金森長近は殆ど扱われないんですが😢
本能寺の変で織田信長とその嫡男・信忠を一度に失った織田家は後継者の決定が緊急の課題となっており、1582年7月16日(天正10年6月27日)には織田家の重臣が一堂に会して『清州会議』が開かれました。
この時に多くの家臣団が羽柴秀吉の支持に回ったため影響力の低下に危機感を覚えた筆頭家老の柴田勝家は会議に不満な信長の三男・信孝や会議に出席できず影響力を失っていた滝川一益らと組んで反秀吉陣営を構築します。
しかし、先手を打ったのは秀吉の方でした。
北陸に拠点を置く勝家が雪で身動きできなくなる隙をついて秀吉は反目する陣営を次々と屈服させ、耐えきれなくなった勝家は翌年2月に近江へ向けて出陣します。
互いに手の内を知るだけに積極的な攻勢は仕掛けず睨み合いが続く中、美濃で挙兵した信孝に対処するため秀吉の主力が転身したのを好機と見た佐久間盛政が攻勢を仕掛けました。
6月9日に中川清秀の砦が陥落し、清秀はそのまま戦死。
続いて黒田孝高の部隊が襲われましたが、そこは『軍師官兵衛』と呼ばれた男、盛政の猛攻を押しとどめます。
そんな攻防が繰り広げられる戦場に、美濃へ進軍していた筈の秀吉本隊が引き返してきました。
美濃から近江までの13里(約52km)を5時間という驚異的な進軍速度で走破。
俗に言う『美濃大返し』により、再び大軍勢となった秀吉軍は一気に勝家軍を押し返します。
勝家軍の異変はその乱戦の最中に起こりました。
6月11日、勝家軍の陣営に布陣していた前田利家・金森長近・不破勝光の軍勢がいずれも戦うことなく突如として戦線を離脱。
それを追いかける形で秀吉の大軍勢はそのまま奥深くまで攻め入り、勝家の本隊に殺到しました。
圧倒的軍勢の前に勝家の軍勢は成す術もなく総崩れとなり、敗走を余儀なくされます。
勝家は北ノ庄城まで逃れるもそのまま進軍を続けた秀吉の大軍勢に包囲され、6月14日落城。
勝家とその妻・お市の方は三人の娘を残して、焼け落ちる城と運命を共にしました。
勝家と秀吉の勝敗を分けたのは人材の層の厚さでした。
勝家の軍団では佐久間盛政が勇猛果敢に戦ったものの、秀吉の軍団には軍師官兵衛のみならず『賤ケ岳七本槍』と呼ばれる子飼いの武将も活躍し、秀吉や勝家と同様の織田家重臣だった丹羽長秀は明確に秀吉の指揮下で参戦しています。
そして勝家軍から離脱した前田利家は秀吉とは家族ぐるみの親密な間柄であり、金森長近は秀吉の立身出世の始まりである美濃攻略戦で肩を並べた旧知の仲としても知られていました。
勝家と秀吉の対立が決定的になった時点で、両名とも秀吉の下に降る日が来ることを最初から覚悟の上だったと思われます。
この賤ケ岳の戦いの終結後、勝家の催促に応じず様子見を続けていた毛利氏に秀吉は戦勝報告と同時に自分への服従を要求。
石山本願寺の跡地に信長の安土城すら上回る前代未聞の超巨大城郭・大坂城の建設を開始します。
運命の日から僅か1年にして、秀吉は早くも『天下人』の名を手中に収める地点にまで足を進めていました。
この日に決着が付いた賤ケ岳の戦いは、金森長近の決断が大きな影響を与えていました。
……まぁ大抵の場合は前田利家ばかりクローズアップされて金森長近は殆ど扱われないんですが😢
本能寺の変で織田信長とその嫡男・信忠を一度に失った織田家は後継者の決定が緊急の課題となっており、1582年7月16日(天正10年6月27日)には織田家の重臣が一堂に会して『清州会議』が開かれました。
この時に多くの家臣団が羽柴秀吉の支持に回ったため影響力の低下に危機感を覚えた筆頭家老の柴田勝家は会議に不満な信長の三男・信孝や会議に出席できず影響力を失っていた滝川一益らと組んで反秀吉陣営を構築します。
しかし、先手を打ったのは秀吉の方でした。
北陸に拠点を置く勝家が雪で身動きできなくなる隙をついて秀吉は反目する陣営を次々と屈服させ、耐えきれなくなった勝家は翌年2月に近江へ向けて出陣します。
互いに手の内を知るだけに積極的な攻勢は仕掛けず睨み合いが続く中、美濃で挙兵した信孝に対処するため秀吉の主力が転身したのを好機と見た佐久間盛政が攻勢を仕掛けました。
6月9日に中川清秀の砦が陥落し、清秀はそのまま戦死。
続いて黒田孝高の部隊が襲われましたが、そこは『軍師官兵衛』と呼ばれた男、盛政の猛攻を押しとどめます。
そんな攻防が繰り広げられる戦場に、美濃へ進軍していた筈の秀吉本隊が引き返してきました。
美濃から近江までの13里(約52km)を5時間という驚異的な進軍速度で走破。
俗に言う『美濃大返し』により、再び大軍勢となった秀吉軍は一気に勝家軍を押し返します。
勝家軍の異変はその乱戦の最中に起こりました。
6月11日、勝家軍の陣営に布陣していた前田利家・金森長近・不破勝光の軍勢がいずれも戦うことなく突如として戦線を離脱。
それを追いかける形で秀吉の大軍勢はそのまま奥深くまで攻め入り、勝家の本隊に殺到しました。
圧倒的軍勢の前に勝家の軍勢は成す術もなく総崩れとなり、敗走を余儀なくされます。
勝家は北ノ庄城まで逃れるもそのまま進軍を続けた秀吉の大軍勢に包囲され、6月14日落城。
勝家とその妻・お市の方は三人の娘を残して、焼け落ちる城と運命を共にしました。
勝家と秀吉の勝敗を分けたのは人材の層の厚さでした。
勝家の軍団では佐久間盛政が勇猛果敢に戦ったものの、秀吉の軍団には軍師官兵衛のみならず『賤ケ岳七本槍』と呼ばれる子飼いの武将も活躍し、秀吉や勝家と同様の織田家重臣だった丹羽長秀は明確に秀吉の指揮下で参戦しています。
そして勝家軍から離脱した前田利家は秀吉とは家族ぐるみの親密な間柄であり、金森長近は秀吉の立身出世の始まりである美濃攻略戦で肩を並べた旧知の仲としても知られていました。
勝家と秀吉の対立が決定的になった時点で、両名とも秀吉の下に降る日が来ることを最初から覚悟の上だったと思われます。
この賤ケ岳の戦いの終結後、勝家の催促に応じず様子見を続けていた毛利氏に秀吉は戦勝報告と同時に自分への服従を要求。
石山本願寺の跡地に信長の安土城すら上回る前代未聞の超巨大城郭・大坂城の建設を開始します。
運命の日から僅か1年にして、秀吉は早くも『天下人』の名を手中に収める地点にまで足を進めていました。
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