6月4日は大坂夏の陣が終息した日
1615年6月4日(元和元年5月8日)。
炎上する大坂城の中で、豊臣秀頼・淀殿以下最後まで残っていた30余名が自害。
ここに1614年から始まる『大坂の陣』は幕を閉じました。
それは応仁の乱以降150年に及ぶ戦国の争乱が本当の意味で終わったことも意味していました。
これ以降は大塩平八郎の乱に至るまで、一揆や転覆未遂を除いて200年以上もの間に国内の戦乱が全く起こらないという世界的にも極めて稀な『天下泰平の世』が続くことになります。
(島原の乱は一揆扱いなのでカウント対象外らしい)
そんな乱世に終わりを告げる大坂城炎上の光景は、遠く離れた京の町からも見渡せたと言われます。
それを見つめていたであろう一人の女性がいます。
高台院。
一般的に『北政所』そして『ねね』として知られる人物です。
秀吉の死後も諸大名に影響力を持ち続けていた彼女は戦乱勃発に伴い大坂城入りを望んでいましたが、家康の命を受けていた甥の木下利房に阻まれて遂にそれは叶いませんでした。
身一つの足軽に過ぎない秀吉(当時は木下藤吉郎)と周囲の反対を押し切って結婚し、その秀吉が一国一城の主を経て信長の後継者として天下統一まで公私に渡って支え続けた彼女は、その秀吉が一代で築いた栄華の終焉までも見届けることになりました。
しかし、彼女には菩提を弔うこと以外にもやるべきことが残っていました。
それは実家の木下家の存続です。
甥にあたる木下利房は備中足守藩の存続が許され、その子・利次を養子として迎えたことで羽柴家・豊臣家の存続も叶うことになりました。
備中足守藩はその後も江戸時代を通じて改易も転封もされることなく木下家が統治し、公の場では『豊臣』を名乗ることすら許されていました。
そのため大坂の陣は一般的には「豊臣氏の滅亡」と言われていますが、それは秀吉直系の豊臣の血筋が途絶えただけで実際には江戸時代を通じて現代まで豊臣氏自体は存続していることになります。
なお備中足守藩の出身者としては、幕末に適塾を開いた緒方洪庵が知られています。
福沢諭吉や大村益次郎など明治維新に繋がる名士を多く輩出した適塾の創設者が豊臣に関わる地の出身だったのは、何とも不思議な因果を感じさせます。
1624年10月17日(寛永元年9月6日)、家康の死すらも見届けた彼女は76年の生涯を閉じました。
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