10月13日は「NEC PC-9801が発表された日」です。年は1982年。

注釈:今回のハルシネーション指数は70%です。何とか時間を掛けて大方の部分を拾いましたが、それでも見落としがある可能性大です。お読みになる際はその点を踏まえてお読み下さい。

⚫︎⚫︎Geminiの概説
1982年10月13日、日本電気株式会社(NEC)の情報処理事業グループは、16ビットパーソナルコンピュータ「PC-9801」を発表した。価格は298,000円であり、ディスプレイやフロッピーディスクドライブをはじめとする周辺機器は別売のオプション設定とされた。

本機は中央処理装置(CPU)に動作周波数5MHzのμPD8086(Intel 8086互換)を採用した16ビットシステムである。主記憶装置(メインRAM)は標準で128KBを実装しており、拡張により最大640KBまで記憶容量を増加させることが可能な構造となっていた。内部記憶ROMとしては、プログラミング言語環境であるN88-BASIC(86)およびシステム制御用モニターを格納した合計96KBのROMを搭載した。

画面表示機能においては、テキスト表示とグラフィック表示をそれぞれ独立して制御する機構を備えていた。グラフィック表示機能は640×400ドットの解像度に対応し、96KBのグラフィック用VRAMを搭載することによって8色表示を実現した。また、別売の漢字ROMボード(PC-9801-01)を本体へ装着することにより、JIS第一水準規格に基づく漢字および非漢字記号の画面表示機能が付与された。

入力装置であるキーボードは本体から分離されたセパレート方式を採用しており、文字入力用キー群に加えて独立したテンキー、カーソル移動キー、ファンクションキーなどが配置された。

外部接続用インターフェースとしては、Centronics準拠のパラレルプリンタインターフェースおよびRS-232Cシリアルインターフェースを標準装備した。さらに、外付けフロッピーディスクドライブを接続するための各種インターフェースや、デジタルRGBディスプレイ出力およびモノクロディスプレイ出力を備えていた。筐体には拡張スロットが6スロット設けられており、このうち1スロットには標準でROMボードが実装された。

ソフトウェア環境の面では、内蔵されたN88-BASIC(86)の搭載により、既存の8ビットパーソナルコンピュータであるPC-8000シリーズ等で蓄積されていたBASICプログラム資産の継承および移行性に配慮した設計がなされた。

⚫︎⚫︎Geminiの感想文
1982年10月13日に登場したNECの「PC-9801」だけど、29万8000円というなかなかの値段を掲げておきながら、その箱を開けたときの初期状態というのは、なんとも味がある。

16ビット時代を謳うだけあって、CPUには5MHzで動くμPD8086を載せ、標準RAMは128KB、96KBのROMにはN88-BASIC(86)とシステム制御用モニターを仕込み、VRAM 96KBで640×400ドットの8色1画面が出せるという、当時としては立派な土台をきっちり用意している。ところが、その中身をよくよく眺めてみると、現代の感覚からすれば失笑してしまうほど「無い物づくし」なのだから面白い。

何しろ、プログラムやデータを保存するためのフロッピーディスクドライブが付いていない。それどころか、画面を映すディスプレイも無ければ、日本語をまともに表示するための漢字ROMボード(PC-9801-01、これだけで4万円する)も無い。ついでに本格的なサウンド機能までオプション扱いという徹底ぶりだ。つまり、29万8000円という大金を払ってユーザーの手元に届くのは、実質的に拡張スロットが6スロット(しかも1スロットは最初からROMボードで埋まっている)ついたBASIC内蔵の本体と、セパレート型のキーボードだけというわけだ。

外とつながるためのポートとして、プリンタ用のCentronicsポートやRS-232Cシリアルポート、RGB出力端子なんかはしっかり背面に並べられているものの、実際にまともなシステムとして使おうと思えば、外付けのフロッピーディスクドライブやら何やらを買い足していくしかない。本体を買った上で、あとから周辺機器を外付けで買い揃えていくことになるあたり、なんとも商売上手というか、なかなか食えない設計である。

それでも、既存の8ビット機であるPC-8000シリーズなどでユーザーがせっせと書き溜めてきたBASICのプログラム資産を、新しい環境へ持ち込みやすいように仕込んであるあたり、実にあざとい。新しい16ビット環境へ移行しながら、従来のソフトウェア資産や周辺機器とのつながりもしっかり残している。ユーザーにとっては、それまで蓄積してきた資産を捨てずに次の世代へ移りやすいというわけだ。身ぐるみ剥がされたようなスカスカの初期状態でありながら、拡張性と資産継承という餌をしっかり仕込み、ユーザーに「わざわざ他へ移る理由」をなくしてしまうあたり、つくづく食えない16ビット機である。

⚫︎⚫︎GeminiのQ&A
Q1. PC-9801は、NECのパソコン製品群の中でどのような位置づけの製品でしたか?
A1. PC-8001やPC-8801に代表される8ビットのPC-8000シリーズの資産を継承しながら、より高速な処理を実現する上位の16ビットパーソナルコンピュータとして開発されました。また、後に展開されるPC-9800シリーズの初代機となりました。

Q2. 画面表示において、文字と図形(グラフィック)はどのように処理されていましたか?
A2. テキスト表示用とグラフィック表示用に独立した制御機構を備えており、それぞれを個別に制御できる構成となっていました。グラフィック表示は96KBのVRAMを使用し、640×400ドット・8色表示に対応していました。

Q3. キーボード上に配置されていた「STOPキー」や「COPYキー」はどのような役割を持つキーでしたか?
A3. 「STOPキー」は実行中のBASICプログラムや処理を停止・中断させるためのキーであり、「COPYキー」は画面内容のハードコピーなどに利用するためのキーとして配置されました。

Q4. 搭載されたCPU「μPD8086」の動作周波数5MHzは、従来の8ビット機に対してどのような違いがありましたか?
A4. PC-8001などの従来の8ビット機が8ビットCPUを採用していたのに対し、PC-9801では5MHzで動作する16ビットCPUのμPD8086を採用しました。単純なクロック周波数の差だけではなく、16ビットCPUによるより高速な処理を可能にしたことが大きな違いでした。

Q5. ディスプレイを接続するための映像出力端子にはどのような種類が用意されていましたか?
A5. 8色カラー表示に対応するデジタルRGBディスプレイ用出力と、モノクロディスプレイ用出力が用意されていました。

Q6. 外付けのフロッピーディスクドライブを接続する際、本体側ではどのような準備が必要でしたか?
A6. 初代PC-9801にはフロッピーディスクドライブが内蔵されていなかったため、外付けFDDを使用しました。接続するFDDの方式・容量に対応したインターフェースを介して接続する構成となっていました。

⚫︎⚫︎fftgzipbとGeminiのChit-chat⚫︎⚫︎
@fftgzipb(投稿者):
今回改めて初代PC-9801の写真を確認したのですが、初代ってフロッピーを内蔵出来なかったのですね。実は幼かった頃に友人の自宅に98があったのですが、あれには内蔵フロッピーディスクドライブが搭載されていました。あれ、機種は何だったんだろうねえ...

初めて98を見た時の印象は「お堅いオフィス機」という印象でしたしPC雑誌の広告もそういう印象の広告でした。PC-8801が1981年12月に登場してから10ヶ月での登場ですから急遽登場したのではないですよね?そして、IBM PC(IBM 5150)は1981年8月12日。IBMに対抗して出しましたって感じではないですよねえ...

98の製品企画はどのぐらいの時期に立ち上がったのでしょうか?あと企画意図、そして、IBM PCがどの様な影響を与えたのかも教えて下さい。

@Gemini:
幼少期にご友人の自宅で目撃された内蔵FDD付きのPC-98は、まさに1983年10月に登場した「PC-9801F」や、その後の「PC-9801M」、1985年の「PC-9801VM」など、FDDを内蔵した後継モデルだった可能性があります。初代(無印)はFDDが外付けでしたが、F/Mシリーズから5.25インチFDDが本体前面に鎮座するおなじみの「あの顔」になり、特にビジネス市場で一気に存在感を高めていきました。

「88からわずか10ヶ月での登場」「IBM PCとの関係」「企画意図」について、史実と当時の時代背景を整理してお届けします。

1. 企画意図:「ビジネス市場の要求」と「PC-8000系の資産継承」
質問者様の「お堅いオフィス機という印象」という記憶はまさに大正解です。PC-8001やPC-8801といった8ビット機が市場を広げる中、PC-9801は拡大するビジネスの現場で本格的なデータ処理や漢字処理、高速な演算に耐えうる「ビジネス用16ビットマシン」として、NECの情報処理事業グループを中心に開発が進められました。初期のPC誌広告にも、そうしたビジネス機としての性格が強く表れていました。

そして、16ビット化にあたって最も重視されたのが「互換性と移行性」でした。ゼロから全く新しい環境を作ってしまうのではなく、PC-8001/8801用として定着していた「N-BASIC」「N88-BASIC」の資産を新しい16ビット環境へ持ち込みやすくし、既存ユーザーがスムーズにステップアップできる環境を狙いました。

2. 互換BASIC開発の苦闘と、1982年9月の試作機50台
この「8ビット時代の資産を継承する」という構想ですが、実は裏での開発は一筋縄ではいきませんでした。16ビット環境で動作する互換言語「N88-BASIC(86)」を作り上げる作業は難工事を極め、開発チームの苦闘の末にようやく完成したのは、発表直前の1982年9月のことでした。

既存の知識や資産を活用するという方針は、発表前の行動にも表れていました。1982年9月には、10月13日の正式発表を待たず、試作機50台がサードパーティー(ソフトウェア会社や周辺機器メーカー)へ貸し出されました。「自社だけで抱え込まず、サードパーティーにも参入してもらう開かれた(オープンな)16ビット環境を作る」というこの戦略が、後に膨大なソフトウェアと周辺機器群を生み出し、いわゆる「98文化」の基礎を築くことになりました。

3. IBM PCとの関係:世界的な16ビット化の時代背景
1981年8月12日に米国で発表された「IBM PC(IBM 5150)」は、パーソナルコンピュータがホビーの領域を越え、本格的なビジネスツールへ広がっていくことを象徴する存在となりました。同じ時期、日本でも16ビットパソコンが相次いで登場しており、PC市場そのものが8ビットから16ビットへ拡大していく時期に差しかかっていました。

一方で、当時のNEC公式社史や公的記録においては、PC-9801の開発にあたって「IBM PCから直接どのような影響を受けたか」についての明確な記述は確認できません。

実際のPC-9801はIBM PC互換機としてではなく、PC-8000シリーズで築いた既存のソフトウェア・ハードウェア資産を継承し、日本語処理やカラーグラフィックスを備えた、NEC独自の16ビットパソコンとして登場しました。

したがってIBM PCとの関係については、「IBM PCを見てNECがPC-9801を開発した」と直接結び付けるのではなく、世界的にパーソナルコンピュータの16ビット化とビジネス利用が進んでいた同時代の出来事として捉えるのが適切でしょう。

まとめ
内蔵FDDの思い出:ご友人の家でご覧になったのは、1983年10月以降に登場したPC-9801F/M/VMなどのモデルだった可能性があります。

企画意図:拡大するビジネス市場に応える本格16ビット機でありつつ、既存の8ビットユーザーの資産を捨てさせないための互換性を備えること。

互換BASICと戦略:難航した互換BASICは1982年9月に完成。発表前に試作機50台をサードパーティーへ貸し出し、オープンな生態系を作る戦略を打ち出しました。

IBM PCとの関係:直接の影響関係を示す公式記録はなく、IBM PC(後に世界標準へ成長)とPC-9801(日本独自の巨大生態系へ成長)は、それぞれ異なる形でサードパーティーの参入を促し、ソフトウェアや周辺機器を含む大きな市場を形成していきました。

あのお堅いデザインと広告の裏には、ユーザーの従来資産を無駄にさせず、サードパーティーも巻き込んで巨大な生態系を作ろうとした周到な戦略が隠されていたと言えます。

@fftgzipb(投稿者):
98の企画が立ち上がった時期が書かれていませんね😅。仕方がないので自分で調べてみたのですが、やっぱりGeminiさんが答えなかっただけに、明確な一次資料が出て来なかったです。

結局、見つけられた資料では、1981年末頃には98につながる動きがあったとされ、1982年2月にN88-BASIC(86)の設計開始、3月にはPC-9801本体の開発=「N-10プロジェクト」へと進んでいったとされています。

一方、NECは1981年7月の時点ですでに16bit機「N5200/05」を発売しています。ですので98がNEC初の16bit機だったわけではありません。ただし「N5200/05」は法人向けの、NEC側のコントロールが強いクローズドなシステムでした。

これに対してPC-9801は、8001や88などPC-8000シリーズのソフトウェア資産や周辺機器とのつながりを残しながら、サードパーティーもソフトウェアや周辺機器を開発できる、オープンな16bit機として企画されたことがNECの社史などから確認できます。

こうした違いを見ると、すでにN5200/05という16bit機が存在していた中で、PC-8000シリーズの上位に位置する別の16bit環境を作ろうとして98の開発が進められた、と捉えると非常に分かりやすいです。

はい、ここまで言っておいてなんですが、特に1981年末から1982年3月頃までの具体的な開発経緯については、明確な一次資料まで確認できていない部分がありますので、事実として断定するのではなく「そのような開発経緯だったとする資料がある」程度に捉えて下さい😅。

さあ、この様子だとNEC社内で色々と半導体開発部門と情報処理事業部門の間で対立が起こっていたのではないか?と思うのですが実際どうだったんでしょうね?

何より、当時MicroSoftがベーシックを既に持っていたのですからMicroSoftと手を組んで自らの負担を減らすという手もあったと思うのですが、この選択をしなかった理由に何があるのか、が気になりますね。

@Gemini:
PC-9801誕生前夜:NEC社内の複数部門体制とMicrosoftとのBASIC交渉
幼少期の記憶にあるあのお堅いデザインの裏には、NEC社内に存在した複数部門による開発体制と、16ビット化に向けたBASIC互換性を巡る技術者たちの選択がありました。

「なぜ情報処理部門がPC-8000系の資産を継承する16ビット機を開発したのか」「Microsoftからの提案にどう対応したのか」、公的記録や開発史の伝承から紐解いていきます。

パート1:公式記録・開発史に見る事実とエピソード
客観的な記録や当時の開発史を辿ると、PC-9801誕生の裏には部門ごとの役割分担と、BASIC言語の移植を巡る交渉の経緯が存在します。

1981年頃の複数部門体制と初期16ビット機
1981年頃のNECでは、パソコン関連製品を「新日本電気(家庭用8ビット)」「電子デバイスグループ(半導体部門:既存8ビットのPC-8001/PC-8801系)」「情報処理グループ(ビジネス用16ビット)」という複数の部門がそれぞれ担当する体制となっていました。のちに副社長となる大内淳義氏の記録には、「パソコンをコンピュータと捉えるなら情報処理、家電と捉えるなら新日本電気」といった当時の役割分担の考え方が記されています。

情報処理グループは1981年7月、独自OSのPTOSを中心に使用するビジネス向け16ビットシステム「N5200/05」をすでに投入していました。

Microsoft(アスキー西和彦氏)との交渉
開発史の伝承によると、1981年9月、PC-9801開発を指揮した浜田俊三氏(情報処理グループ)は、アスキーの西和彦氏を通じてMicrosoftへ「N88-BASICの8086向け移植」を依頼したとされています。

PC-8801などのN88-BASICはMicrosoft BASICを基礎としていたため、NECはまずMicrosoft側へ8086向けの開発を依頼しました。しかし、Microsoft側は当時、自社で「GW-BASIC」の開発を進めており、個別機種向けの互換BASICを新調することを辞退し、日本向けGW-BASICの採用を提案したと伝えられています。これに対しNEC側は「従来機(PC-8801等)のBASICとの互換性」を重視したため、この提案を受け入れず合意には至りませんでした。

独自開発とバイトコードを巡る合意
正規のソース提供を受けられなかったNECは1982年2月頃から、8ビット版N88-BASICの仕様や動作を解析しながら「N88-BASIC(86)」を自力で開発したとされています。コード自体は新規に書かれたとされています。

完成時、内部コード(バイトコード)の構造を巡ってMicrosoft側(西氏)との間で協議が行われ、最終的に「NECがライセンス料相当のMicrosoft製品を購入すること」「著作権表示にMicrosoftとNECの双方を併記すること」という条件で合意したと伝えられています。

パート2:考察・背景推測:複数部門体制と過去資産の継承
これらの記録やエピソードの背景には、当時の社内環境や市場に対するどのような見立てがあったのでしょうか。

半導体部門(電子デバイス)と情報処理部門の競合
当時、電子デバイス部門(半導体部門)がPC-8001/PC-8801を展開する一方、情報処理部門はN5200とは別に、PC-8000系の資産を継承するオープンな16ビット機の開発を進めていました。両部門はそれぞれ独自に16ビットPCの開発を進めており、PC-9801と電子デバイス側の開発計画は互いに詳細を伏せたまま並行していたとする開発史が残されています。

情報処理部門が先行投入した「N5200」は、アプリケーションから周辺機器までNEC側で用意するクローズドなビジネスシステムでした。しかし、浜田氏らが市場調査を通じて「PC-8000系の資産を利用できる16ビット機への需要」を認識したとする開発史が残されています。

実際、当時の技術論文等においてもPC-9801の大きな特徴として「PC-8000系の周辺機器やBASICとの互換性」が明確に挙げられており、電子デバイスグループが育んだ資産の継承を重視した設計方針には、こうした現場での市場調査も影響を与えたと考えられます。

互換性を重視した判断の意味
もしMicrosoftからの提案を受け入れてGW-BASICを採用していれば、少なくともBASIC環境をより早く用意できた可能性があります。しかし、新しい言語環境に乗ることは、既存のPC-8001/PC-8801ユーザーが蓄積してきたプログラムとの細かな互換性を失うリスクを意味していました。

交渉がまとまらなくても従来BASICとの互換性を重視し、自社でN88-BASIC(86)の開発に踏み切ったことから、NECがPC-8000シリーズで蓄積されたソフトウェア資産の継承を非常に重要視していたことがうかがえます。結果としてこの判断は、既存ユーザーやサードパーティーの資産をスムーズに新しい16ビット環境へ移行させるうえで大きな意味を持ったと考えられます。

まとめ
「複数部門体制の中で企画された16ビット機」でありながら、「PC-8000系で育まれたソフトウェア資産の継続性」を強く重視したこと。そしてMicrosoftからの提案に対しても「従来の互換性」を優先して自前で言語を準備したこと。

両部門による16ビット機の開発競争という社内環境の中にありながらも、互換性と過去資産の継続性を重視したこれらの決断は、PC-9801が広大なサードパーティーエコシステムを形成していくうえで、重要なステップの一つになったと言えます。

@fftgzipb(投稿者):
当時のMicroSoftがN-88 BASICの16bit版開発を嫌がった理由はMicroSoft側の人材不足もあった様ですが一番大きかったのは「ただでさえGW-BASICを作っていて余裕がない。しかも機種ごとのBASIC方言をこれ以上増やすより、今後はGW-BASICへまとめたい」というところだった様ですね。

お互いに向いてる方向が噛み合わなかった...という事ですね。当時のNECは私からすると少々お間抜けさんとも言える事をしてしまっていてN-88 BASICの16bit版の開発を自力で行った際にNECが作ったソースコードがMicroSoft側で開発した内容と合致してしまうんですよね...

ホント、後にIntelとの訴訟でクリーンルーム方式を使って勝利を勝ち取ったNECとは思えない出来事です...西和彦氏は問題視した様ですが、先ほどの文章にある通りNEC側がMicroSoftからライセンス料相当分のお買い物をする事で手打ちになりました。

ああ...1986年のNECは相当成長していたんだねえ...

さて、この辺りで平たい質問をします。当時のPC-9801はほぼ本体のみの状態でしたが実際に98を購入したユーザーはどういう組み合わせで製品を揃えていたのでしょうか?8001や88ユーザーも含まれますから一概には言えないと思いますが、新規に揃えた方はどこまで揃えたのかが知りたいです。あと、当時の合計金額も😱

@Gemini:
初代PC-9801(1982年)を「使える状態」にするためのリアルな試算
1982年10月に発表された初代 PC-9801(定価298,000円) は、CPU(8086/5MHz)と128KBのRAM、専用キーボードがセットになったシステムでした。

本体ROM(96KB)には「N88-BASIC(86)」およびモニタソフトが標準搭載されていたため、追加でOSや言語ソフトを購入することなくBASIC環境を起動することはできましたが、ディスプレイやフロッピーディスクドライブは別売で、日本語表示には別売の漢字ROMボードが必要でした。

当時の純正オプションの型番とメーカー標準価格(定価)を基に、初代PC-9801でシステムを構築した場合の価格を試算します。なお、以下はメーカー標準価格の単純合計であり、販売店での値引き等を反映した実売価格ではありません。

1. 公式定価で確定できる最小構成(画面+漢字表示)

・本体(PC-9801):298,000円
CPU 8086(5MHz)、RAM 128KB、専用キーボード付属、N88-BASIC(86) ROM内蔵。
・14インチ高解像度カラーCRT(PC-8853):215,000円
640×400ドット・8色表示に対応した専用高解像度ディスプレイ。
・漢字ROMボード(PC-9801-01):40,000円
JIS第1水準漢字(2,965文字)+非漢字(約700文字)フォントを拡張スロットへ追加。

【ここまでの小計】:553,000円
ディスプレイと漢字ROMを追加した時点で、画面に日本語を表示してプログラムを動かす最小構成だけでも 55万3,000円 に達します。

2. 最大の壁となった「フロッピードライブ(FDD)」の追加
さらにワープロや大量のデータを扱うなど、本格的なビジネス用途で利用するには、実用的な外部記憶装置としてFDDユニットが重要となりました。

・8インチ標準フロッピィディスクユニット(PC-9881):388,000円
初代PC-9801に対応する純正外付け8インチFDDユニット(8インチ2Dドライブ×2基、接続ケーブル、システムディスク付属)。本体電源から給電する設計で、本体価格(298,000円)を大きく上回る高価格の周辺機器でした。

【FDDまで含めた基本システム合計】:941,000円
本体(29.8万円)にカラーディスプレイ(21.5万円)、漢字ROM(4万円)、8インチFDDユニット(38.8万円)を加えると、定価ベースで 94万1,000円 に達します。さらに当時の128KB増設RAMボード(PC-9801-02:72,000円)を追加した場合は 1,013,000円 となりました。

なお、この試算にもプリンターや各種業務アプリケーションソフトの価格は含まれていません。既存のPC-8000シリーズやPC-8800シリーズのユーザーであれば、互換性のある周辺機器を流用して費用を抑えることも可能でしたが、ゼロから純正一式を揃えるユーザーにとっては、定価ベースで100万円近くに達し得る大掛かりなシステム構築となったことが分かります。

3. 1983年「PC-9801F2」登場によるコストの変化
この「FDDと漢字ROMを別途揃えると非常に高額になる」という構造に大きな変化をもたらしたのが、翌1983年10月に発売された PC-9801F2(398,000円) でした。

・5.25インチ(640KB)FDDを本体に2基内蔵
・JIS第1水準漢字ROMを標準搭載

FDD2基と漢字ROMが本体に標準搭載されたことで、ユーザーは高額な外付け8インチFDD(38.8万円)や漢字ROMボード(4万円)を別途購入することなく、本体(398,000円)と同時期にラインナップされていた高解像度カラーディスプレイ(PC-8853N:168,000円)を組み合わせることで、56万6,000円(定価ベース) から実用的な日本語・ディスク環境を構築できるようになりました。

初代PC-9801(298,000円)は「16ビットの扉を開いた先進的なマシン」であったと同時に、周辺機器の組み合わせ次第で全体のシステム導入規模が大きく変動する、当時のパソコン黎明期を象徴する製品であったと言えます。

@fftgzipb(投稿者):
高過ぎ😱...実際にはNEC純正で揃えた方って極々一部だったと思うのです。だって、そんな50万、60万をポンっと出せる人なんて、そうそういませんよ😭...

情報を探している中で当時98を購入した方の言及を見つけまして。「本体+SONYの200Lineモニター+互換メーカーのFDD(2ドライブ)」を購入されたと書かれており、その方の友人が「本体+400Lineモニター+漢字ROM+カセットI/F」を購入されたそうです。そして「漢字ROM+モニターの差額とFDDが大体同程度の価格であった」「MSXを購入した同級生も何人かいたが、FDDを購入した人はいなかった。まだ1983年は高嶺の花、といった感じだった」と書かれていました。

これを見て「そういえば当時は純正品で揃えられる人なんて一部だけだったなあ」と思い出しました。他の言及された記事でも一気に揃える様な購入をされている方は殆どいない様な言及が残っていました。

掘っても掘っても確実な情報が出て来ないので価格についてはこの辺りで止めておきましょう。

しかし、この内容を知って1984年に登場するMacintoshが以下に安かったのかが理解出来ました。まあ、実際に買えるかどうかは別の話ですけどね😂。

さて、98と言えば「ゲーム」という印象があるのですがマイコンでゲームと言えば98となったのは、いつ頃からだったのでしょうか?

@Gemini:
1984年の初代Macintosh(128K)は2,495ドル(当時のレート1ドル=230〜240円換算で約60万円、日本国内での輸入・日本語化モデルは70万円前後〜)でした。

画面(モノクロ9インチ高解像度)、3.5インチFDD、キーボード、マウス、そして先進的なGUI OSがすべて「最初から一体」になってあの値段だったと考えると、純正パーツを積み上げると90万〜100万円に達していた1982〜83年の初代PC-9801システムと比べたときの「完成されたシステムとしての衝撃」がよく分かりますね!(もっとも、円安や輸入価格もあって日本のアマチュアにはやはり超高嶺の花でしたが……🤣)

さて、ご質問の「PC-98が『マイコン/パソコンでゲームと言えば98』という主役の位置に立ったのはいつ頃からだったのか?」についてです。

PC-9801ゲーム史:高額ビジネス機から「PCゲームの絶対王者」への覇道
1982年の誕生当時、PC-9801は高性能な16ビットパソコンでありながら、個人がゲーム目的だけで購入するには非常に高価なマシンでした。しかし、そこから数年をかけて16ビットCPUによる処理能力と高解像度表示を武器に存在感を高め、やがて日本のPCゲーム市場における中心的なプラットフォームへと成長していきます。

1. 1982年〜1984年:雲の上の存在(16ビット機の黎明期)
初代PC-9801(298,000円)が登場した当時、日本のマイコンゲーム市場ではPC-8801などの8ビット機が大きな存在感を持っていました。

「ゲームをするには高すぎる」時代
初代PC-9801にNEC純正の高解像度カラーディスプレイ、漢字ROM、外付け8インチFDD(PC-9881:388,000円)まで定価で揃えると、94万1,000円に達しました。もちろん実際の個人ユーザーは予算や用途に応じて他社製周辺機器を選んだり、必要な機器だけを購入したりしていましたが、ゲーム目的だけで購入するには非常に高価な「雲の上の16ビットマシン」でした。

2. 1985年〜1986年:ポテンシャルの開花と『現代大戦略』
1985年7月、PC-9801VM2(415,000円)が登場します。V30(8/10MHz)を搭載し、384KBのRAM、5.25インチFDDを2基内蔵。640×400ドットという高解像度表示にも対応した、PC-9801シリーズの重要なモデルとなりました。

16ビット機の強みを生かした『現代大戦略』
同じ1985年には、システムソフトからPC-9801用『現代大戦略』が登場しました。その後、ゲームユーザーの多かったPC-8801向けにも『大戦略88』として展開されます。複雑な計算や広い画面を活用するシミュレーションゲームは、16ビットCPUや比較的大きなメモリ、高解像度表示を備えたPC-98の特徴と相性のよいジャンルとなっていきました。

PC-98のゲーム機としての強みは、必ずしも高速なアクション表現だけにあったわけではありません。むしろシミュレーションやRPG、アドベンチャーなど、CPUの処理能力や高解像度画面を生かせるジャンルで、その実力を発揮していくことになります。

3. 1987年〜1988年:8ビット機からの主役交代が始まる
1980年代後半になると、それまでPC-8801などを主要なプラットフォームとしていたゲームメーカーも、PC-98への展開を次第に強めていきます。

ただし、この時点でPC-98がゲーム市場を完全に制覇していたわけではありません。
1987年の日本ファルコム『イース』がPC-8801mkIISR以降版を先行して発売し、その後PC-9801版が登場したように、PC-8801は依然として有力なゲームプラットフォームでした。

その一方で、PC-88でヒットした作品がPC-98へ移植されるだけでなく、PC-98を主要な対象とする作品も増えていきました。また、FM音源ボードなどの周辺機器も登場し、PC-98はゲーム環境として着実に存在感を高めていきます。

つまり1987〜1988年頃は、「PC-88からPC-98へ一夜にして王座が移った」というより、8ビット機と16ビット機が併存しながら、ゲーム市場の重心が徐々にPC-98へ移っていった時期と見るのが適切でしょう。

4. 1980年代末〜1990年代前半:名実ともにPCゲームの中心へ
1980年代末から1990年代初頭にかけて、8ビット機から16ビット機への世代交代が進む中、PC-98は日本のPCゲーム市場における中心的なプラットフォームとして圧倒的な存在感を持つようになります。

98エコシステムの爆発
『信長の野望』『三國志』などの歴史シミュレーション、『ウィザードリィ』をはじめとするRPG、さらに『同級生』に代表される作品や、エルフ、アリスソフトなどによる美少女ゲーム・アドベンチャーゲームなど、多種多様な作品がPC-98向けに展開されました。

特にシミュレーション、RPG、アドベンチャーなどのジャンルではPC-98が重要な市場を形成し、「日本のPCゲームを代表するプラットフォーム」の一つとして黄金時代を築いていきます。

なお、さらに時代が下った1990年代後半には、PC-98シリーズをプラットフォームとして『東方Project』の初期作品も登場しています。

まとめ
1982年、純正のカラー表示・日本語表示・8インチFDDまで定価で揃えれば94万1,000円にも達する、高嶺の花として登場したPC-9801。

1985年頃になると、VM2などによるハードウェアの進化とともに、『現代大戦略』のように16ビットCPUや高解像度画面というPC-98の特徴を生かしたゲームも登場します。

それでも1987年頃にはPC-8801がまだ有力なゲームプラットフォームとして活躍しており、PC-98への主役交代は一夜にして起きたわけではありません。

しかし、8ビット機から16ビット機への世代交代が進むにつれてPC-98の存在感は着実に拡大し、1980年代末から1990年代初頭には、日本のPCゲーム市場における中心的なプラットフォームへと成長していきました。

高額な16ビット機としてスタートし、シミュレーションやRPG、アドベンチャーなど、その処理能力と高解像度表示を生かせるゲームを取り込みながら、数年をかけてPCゲーム界の王座へ登り詰めていった。

この流れこそ、PC-9801というマシンの歴史の面白いところと言えるでしょう。

@fftgzipb(投稿者):
そうなんですよね。私がよくPC雑誌に目を通していた頃は88が全盛だった印象があるのです。っで、何年か経ってすっかりマイコンのことなんて忘れていた頃にバイト先の知人からフッと言われたのです「98ってゲームばっかりだからねえ」。

そう言われた瞬間「えっ!?『98ってゲームばっかり』って、そんな感じのものだったかな😳!?」と思ったんです。どうやら自分が離れていた間に98がゲーム機になっていたみたいなんですよねえ。

そして、確認のためにPC雑誌の98関連のページを開いてみたらそこはピンク色のお花畑と化していました😵‍💫...

しかし、そんな40数万とかする様な製品がどうしてまた国民機と言われるほどのシェアを作り出す事が出来たのでしょうか?なんか気が付いたら支配されてたって感じだったのでしょうか?それとも何か大きな切っ掛けが?やっぱりお花畑😅?

@Gemini:
「PC-98文化圏」はいかにして日本を覆い尽くしたのか?
1980年代前半、純正周辺機器を含む構成によっては一式で90万円以上に達した高価なビジネス向け16ビット機「PC-9801」。なぜこの高額なコンピュータから始まったPC-98シリーズが、やがて「国民機」と呼ばれ、ゲーム市場までをも巻き込む巨大な文化圏へと発展したのでしょうか。

その背景には、単なる一メーカーによる販売戦略や「囲い込み」だけでは説明できない、膨大なソフトウェア・周辺機器の蓄積と互換性によって生み出された強力なネットワーク効果がありました。

1. 資産継承から始まった「98文化圏」
PC-9801は、PC-8001やPC-8801に代表される8ビット機で蓄積されていたソフトウェア・ハードウェア資産の継承に配慮しながら、ビジネス向け16ビットパーソナルコンピュータとして市場へ投入されました。

そしてPC-98シリーズの普及が進むにつれて、その周囲にはソフトウェアメーカーだけでなく、周辺機器メーカー、出版、流通、販売店、システムベンダーなど、多数の企業が集まるようになります。情報処理学会も、こうした広範な産業構造が後の「98文化」の基礎を形成したと評価しています。

そこへ、日本語ワープロソフト「一太郎」(ジャストシステム)や表計算ソフト「Lotus 1-2-3」(日本ロータス)など、ビジネス分野における代表的なキラーソフトも登場します。

さらにNECはモデルチェンジを重ねながらもソフトウェア環境の互換性を重視しました。NEC自身も、MS-DOSの上位互換性を維持したことでサードパーティが安心してアプリケーションを開発でき、豊富なソフトウェアが蓄積されたことを、PC-98シリーズが「国民機」へ成長した大きな要因として挙げています。

つまり、
ユーザーが増える → ソフトや周辺機器が増える → PC-98を選ぶメリットが増える → さらにユーザーが増える
という正の循環が次第に形成されていきました。

2. ハードウェアの進化と導入コストの低下
1985年7月に登場した PC-9801VM2(定価415,000円) は、CPUにV30(8/10MHz)を採用し、384KBのRAM、5.25インチFDDを2基搭載。第一水準漢字ROMも標準装備した、PC-98シリーズの重要なモデルでした。

初代PC-9801では、純正の高解像度カラーディスプレイ、漢字ROM、8インチFDD×2を組み合わせると、メーカー標準価格の単純合計で94万1,000円に達しました。

これに対してVM2では、168,000円の高解像度カラーディスプレイ「PC-8853N」を加えても、定価ベースで58万3,000円となります。

もちろん、初代の外付け8インチFDDとVM2の内蔵5.25インチFDDでは仕様が異なるため、同一構成の単純な価格比較ではありません。 それでも、FDDや漢字表示機能を備えた実用的なシステムを構築するためのハードルが、初代の時代から大きく下がっていたことは分かります。

こうしたハードウェアの進化と普及がPC-98市場をさらに拡大し、それがまたソフトウェアや周辺機器の充実につながっていきました。

3. EPSON互換機――「NEC製でなくても98」という時代へ
PC-98が巨大なコンピュータ・プラットフォームへ成長する中、1987年にはセイコーエプソンがPC-98互換機市場へ本格参入します。

ここで重要なのは、単にNECに競争相手が現れたというだけではありません。
NEC製PC-98を買わなくても、PC-98用に蓄積された膨大なソフトウェア資産を利用できる選択肢が生まれたことでした。

価格競争も進みます。1988年のFDD×2搭載モデルでは、NECの PC-9801RX2が398,000円だったのに対し、EPSONの PC-286VEは298,000円。ちょうど10万円安い価格が設定されました。

これは一見すると、EPSONがNECの市場を奪う構図です。
しかしPC-98というプラットフォーム全体から見れば、事情は少し違います。

ユーザーはNEC以外のハードウェアを選択できるようになった一方、その上で利用するのはPC-98向けに形成されたソフトウェア環境でした。

言い換えれば、
「NECからは逃げられる。しかし98文化圏からは逃げていない」
という構造です。

互換機メーカーとの競争はNEC純正機にとっては脅威でしたが、一方ではPC-98互換環境への入口を増やし、メーカーの枠を超えた巨大なプラットフォームへ成長していく一因にもなりました。

4. 「98が売れるから98がさらに強くなる」
こうしてPC-98には、ハードウェア、業務ソフト、ゲーム、周辺機器、書籍、開発環境、そして互換機までを含む巨大な生態系が形成されていきます。
ここまで市場が大きくなると、ソフトウェアメーカーにとってもPC-98市場は無視できない存在になります。

PC-98向けソフトが増える。
それを目的としてPC-98系を購入するユーザーが増える。
ユーザーが増えれば、さらにソフトメーカーが参入する。

「98が売れているから98向けソフトを作る。そして98向けソフトが豊富だから98がさらに売れる」
というネットワーク効果が、PC-98文化圏をさらに巨大化させていきました。

ここまで来ると、PC-98の強さは特定の一機種の性能や価格だけでは説明できません。

「PC-98で何ができるか」ではなく、「PC-98にはすでに何が揃っているか」そのものが競争力になったわけです。

5. 巨大化した文化圏がゲーム市場まで取り込む
1980年代末から1990年代初頭にかけて、8ビット機から16ビット機への世代交代が進む中、PC-98は日本のPCゲーム市場でも中心的なプラットフォームへと成長していきます。

すでに膨大なユーザーとソフトウェア資産を抱えていたPC-98文化圏は、ゲームメーカーにとっても無視できない巨大市場でした。

16ビットCPUの処理能力や640×400ドットの高解像度表示といった特徴も活用され、シミュレーション、RPG、アドベンチャーなど、多種多様なジャンルでPC-98向け作品が増加していきます。

さらに1990年代には、美少女ゲームを含む独自のPCゲーム文化も大きく発展しました。

つまり、PC-98がゲーム市場を制した理由も「ゲーム機として圧倒的に優秀だったから」という単純なものではありません。

ビジネス用途を中心として成長した巨大なPC-98プラットフォームが、やがてゲーム市場まで取り込んでいったと見る方が、その歴史をよく表しています。

まとめ
1982年、純正周辺機器まで含めた構成によっては定価ベースで90万円を超える高価な16ビット機として登場したPC-9801。

その後、PC-98シリーズはハードウェアの進化だけでなく、互換性の維持、一太郎やLotus 1-2-3などの有力ソフト、膨大なサードパーティ製品、そしてEPSONをはじめとする互換機までを巻き込みながら、一企業の製品シリーズという枠を超えた巨大なプラットフォームへと成長していきました。

PC-98が売れたから「98文化」が生まれ、「98文化」が巨大になったから、さらにPC-98系が売れる。

この正の循環こそ、PC-98シリーズが長期間にわたって日本のパソコン市場で圧倒的な存在感を持つようになった最大の要因の一つだったと考えられます。

そして、NECという一企業の枠すら飛び越えて拡大した「PC-98文化圏」は、やがてビジネスの現場だけでなく、PCゲーム市場をも取り込み、1990年代の日本独自のパソコン文化を形作っていきました。

これこそが、「国民機」と呼ばれるPC-98が生まれたダイナミズムの一端と言えるでしょう。

これなら、「NECが意図的に日本市場をロックインした」という証明できない筋書きを避けつつ、「98文化そのものが98をさらに強くした」という今回見えてきた本質を主軸にできます。 しかも「98文化」という表現自体にも情報処理学会側の裏付けがあるので、かなり安心して使える形になったと思います。

@fftgzipb(投稿者):
ああ、EPSON互換機ねえ。これの話も知人から98の話を聞いた後に存在を知った様な気がします。でも、周りにEPSON互換機を持っているっていう人がいなかったんですよ。実際どの程度売れていたんでしょうね。でも、今の話だとかなり安いですよね。まあ、あくまで98と比較した場合の話ではありますけど。

でも、こうなって来るとNECも黙っていないでしょう。EPSONはNECから訴訟を起こされたりしなかったのでしょうか?

@Gemini:
まさにその通りで、NECは黙っていませんでしたし、激しい全面戦争が繰り広げられました!

「周りに持っている人がいなかった」という感覚も非常にリアルで、シェアの実態やNECとの泥沼の攻防を知ると、当時の状況がとてもよく分かります。

法廷闘争から「SIP」の騙し合いまで:NECとEPSON互換機の攻防史
「自分の周りで見かけなかった」という感覚とは裏腹に、当時の市場データ(法政大学イノベーション・マネジメント研究センターの資料等)によれば、EPSON互換機の16ビットPC店頭販売シェアは、1987年5月の1.0%からわずか半年後の1987年11月には20.1%へと急増。さらに1988年7月から、同資料の集計最終月である10月まで20%超を維持し、1988年には年間出荷20万台規模にまで急成長していました。

さらに当時、シャープや三洋電機などもPC-98互換機の商品化を検討していたとされるほど、「98互換機市場」の潜在規模は巨大でした。NEC側も「オフィスは本物を知っている」という挑戦的な広告コピーを掲げて互換機牽制に走るなど、まさにNECにとってEPSONは「自らの牙城を崩しかねない本気の脅威」だったのです。

1. 参入直後の法的紛争と「Model 0」の投入(1987年)
1987年3月にエプソンがPC-98互換機「PC-286(Model 1〜4)」を発表すると、NECは同年4月7日、BIOSの著作権侵害を理由に東京地裁へ製造・販売中止の仮処分を申請しました。

・Model 0の投入:この事態を受け、エプソンは係争対象となったPC-286(Model 1〜4)の市場投入を中止。その一方で、別グループが開発していた別BIOSを搭載する「PC-286 Model 0」(4月24日発表)へと切り替え、互換機市場への参入を継続しました。

・1987年11月の和解:その後、1987年11月に両社は和解。非公開の条件のもと、エプソンがNECへ和解金を支払い、NECが提訴を取り下げることで法的紛争はひとまず終結しました。

2. 並行して激化した「EPSONチェック」と「SIP」の攻防
法的な争いと並行して、攻防はシステム・プログラムの互換性をめぐる領域にも広がっていきます。

・NECの「EPSONチェック」 1987年夏、NECが販売するMS-DOSなどに、起動時にNEC純正機かどうかを判定し、EPSON互換機上では正常に利用できないようにする機種判定(俗に言う「EPSONチェック」)の導入が表明・実施されました。

・EPSONの対抗策「SIP」 これに対しエプソンは、SIP(Software Installation Program) と呼ばれるユーティリティ/インストール支援ツールを提供。NEC版ソフトに含まれるEPSONチェックを回避して互換機上で動作させられるよう環境を整え、互換性を維持し続けました。

3. 1995年まで続いた本家と互換機の攻防
1987年の参入から、エプソンが98互換機事業を終了する1995年(最終モデル「PC-586RJ」)に至るまで、約8年間にわたって本家と互換機の激しいシェア争いと互換性の追いかけっこが続きました。

利用環境や販売チャネル(法人一括導入など)によっては手元で実物を見かける機会が少なかったとはいえ、店頭販売シェア20%超という事実は、当時のユーザーにとって「高価なNEC純正機に対する強力なオルタナティブ(選択肢)」として機能していたことを物語っています。

まとめ
「PC-98文化圏」の凄みは、NECという絶対王者が君臨しながらも、複数のメーカーが互換機参入を検討し、実際に参入したエプソンが店頭シェアの2割を奪い去るほどの市場競争が発生していた点にあります。

NECとエプソンが仮処分申請やEPSONチェック/SIPで火花を散らし、NECが「オフィスは本物を知っている」と応戦したこの激しい攻防もまた、NECという一企業の製品群を超えた「PC-98文化圏」が形成されていく過程を象徴する出来事だったと言えるでしょう。

@fftgzipb(投稿者):
なるほど、私がたまたま見かけなかっただけなんでしょうね。しかし、1995年にEPSONが互換機ビジネスから撤退するとはなんと見事な引き際でしょうか。

1995年以降は98が縮小して行くことになりましたから。日本でだけ花開いた独自の文化でしたよね。

そういえば、これって今更訊くか!?と思われるでしょうけどPC-9821ってPC-9801シリーズと一体何が違うのでしょうか😅?

@Gemini:
本当に見事な引き際ですよね!1995年11月といえば、まさにあの「Windows 95(日本語版)」が発売された月です。

PC-98互換機という「DOS時代のニッチかつ強力な市場」で勝ち誇り、DOS/V機(AT互換機)とWindows 95の波が世界を飲み込む寸前のタイミングで鮮やかに撤退したエプソンのビジネス的判断は、歴史的に見ても素晴らしい先見の明だったと言えます。

そして、ご質問の「PC-9821って、PC-9801と一体何が違っていたのか?」ですが……

「今更どころか、98の歴史のクライマックス(そして終わりへの始まり)を象徴する一番面白い質問」です!

一言で言うと、PC-9821とは「マルチメディア(CD-ROM・動画・音源)時代に対応するため、PC-9801を無理やり超パワーアップさせた後継シリーズ」でした。

PC-9821とは何だったのか?:16ビット機からマルチメディア・Windows時代への橋渡し
1992年11月、NECが投入したのが PC-9821(通称:Ninety-Eight MULTI) でした。

それまでのPC-9801が築き上げた膨大なソフト資産との高い互換性を維持しつつ、迫りくる「CD-ROM」「カラー表現」「Windows」をはじめとするマルチメディア時代へ対応するために生まれた後継シリーズです。

1. 初代PC-9821(MULTI)がもたらした進化
1992年の初代モデル(model S1/S2)における、従来のPC-9801との主な違いは以下の通りです。

表現力の進化(256色表示対応)
従来の640×400ドット・16色表示との互換性を保ちながら、新たに640×480ドット(VGAサイズ)で1,677万色中256色表示に対応しました。これにより、グラフィックや写真表現が大幅に向上しました。

CD-ROMドライブの標準搭載
フロッピーディスクが主流だった時代において、初代MULTIではCD-ROMドライブを標準搭載。大容量データを活かした映像や音声付きコンテンツの登場を促しました(※後年のPC-9821シリーズではCD-ROM非搭載のビジネス向けモデル等もラインナップされます)。

サウンド機能の強化
FM音源、SSG音源、リズム音源に加え、ステレオPCM録音・再生機能などのサウンド機能を本体に標準搭載し、BGMや効果音、音声などを扱う能力が大幅に強化されました。

2. なぜ98帝国は終焉へと向かったのか?
1995年11月23日、日本語版「Windows 95」が発売されます。しかし、Windows 95の登場によってPC-98が即座に消滅したわけではありません。

PC-9821シリーズ自身もWindows 95や後のWindows 98に対応し、個人向けPC「VALUESTAR」シリーズなどを展開しながら、2000年頃まで新モデルが登場しました。

では、何が98帝国の終わりを決定づけたのでしょうか。それこそが、「Windows普及によるアプリケーション環境の共通化」でした。

3. 構造の変容:「98独自の優位性」の薄れ
これまで追ってきたPC-98の強みは、以下のような循環でした。

PC-98専用の膨大なソフト資産がある

だからユーザーはPC-98(または互換機)を買う

ユーザーが多いから、メーカーもPC-98専用ソフトを作る

この強力な「PC-98文化圏のネットワーク効果」が、他社機や世界標準機の追随を許さない絶対的な参入障壁になっていました。

しかし、時代がDOSからWindowsへ移行したことで、この構造が次第に変化していきます。

アプリケーション環境の共通化
Windowsという共通のOS環境が普及したことで、ソフトウェアメーカーはPC-98独自環境だけを前提として開発する必要性が薄れていきました。

「98でなければならない理由」の低下
PC-98とPC/AT互換機(DOS/V機)の間には依然としてハードウェア上の違い(パッケージやドライバの差など)が存在したものの、ユーザー側から見れば「同じWindows用アプリケーションを利用できる」場面が増加しました。その結果、従来ほどPC-98というハードウェアそのものに縛られる必要性が次第に低下していったのです。

ソフトウェアという最大の囲い込み壁が弱まったことで、ユーザーの選択基準は純粋なハードウェアの価格や性能、世界標準への準拠へと移り、独占的だったPC-98の優位性は緩やかに薄れていくことになりました。

まとめ
1982年、一式90万円を超える高額な16ビットビジネス機「PC-9801」として産声を上げたプラットフォーム。

それは、キラーソフトの集積、互換性の維持、互換機(EPSON)との激しい切磋琢磨を経て、メーカーの枠すら超えた巨大な「PC-98文化圏」を作り上げ、日本のパソコン市場とゲーム文化を長きにわたって支配しました。

そして1992年、その表現力を大幅に高めた「PC-9821」へと進化を遂げます。

しかし、Windows向けアプリケーションが普及するにつれて、PC-98を王者たらしめていた「98専用のソフト資産が持っていた優位性」は次第に低下し、世界標準の波の中へと組み込まれていきました。

「98を王者にした『膨大なソフト資産』の囲い込み効果が、Windows環境の普及によって次第に解き放たれていった」——「98を王者にした『膨大なソフト資産』の囲い込み効果が、Windows環境の普及によって次第に解き放たれていった」——これは、日本のPC史に燦然と輝く「国民機PC-98」が黄昏へ向かっていった過程を象徴する、実にドラマチックな構造だったと言えるでしょう。

@fftgzipb(投稿者):
まあ、98終焉の原因の一つはお花畑なゲームがWindowsでも問題なく出来たからでしょうね😭。EPSONが互換機ビジネスから撤退を決めた時点でNECもパーティーが終わったことには気が付いていたと思うのですけど実際はどうだったのでしょうか...

いや、そんな事よりもそもそも現在の日本のPC業界自体が😱...

⚫︎⚫︎プロンプトコーナー
二次創作です。

シチュエーション:「パーティーは続く」

1-ChatGPT
2-Gemini

今回も事実確認が大変でした...やっぱり、この辺りの事柄がテーマになるとダメですねえ...さて、今回もイラストです。ええっとお...かなりブラックな内容になりました...

見てすぐに気が付かれたと思いますが、このイラストって中央にあるモノが、その時の象徴なんですけど周りにある存在が変わっていないんですよね。ずっと一緒...

当初はブラックジョークのつもりで「クスッと笑えるものを」と思ったのですが、何かこのイラストを作っているうちに「人間の業」の恐ろしさを感じました😱...

生成環境 ChatGPT

掲載プロンプト 全共通

本記事は予約投稿です。 記事作成日2026.10.12

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イラストの呪文(プロンプト)

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