5月24日はモスクワ五輪の日本ボイコットが決定した日
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「オリンピックは、単なる世界選手権大会ではない。それは平和と青春の花園である。」
オリンピックが掲げた理念が、政治によって捻じ曲げられる。
1979年12月、翌年のモスクワ五輪開催を控えたソ連がアフガニスタンへ侵攻したことで国際問題は一気に表面化します。
ソ連のアフガニスタン侵攻はアフガニスタン国内のイスラム過激派(ムジャーヒディーン)の排除という側面もあり、そのムジャーヒディーンは「敵の敵は味方」という単純な理論でアメリカを筆頭とする西側諸国の支援を受けていたため実質的には代理戦争に近い形となっていました。
そのムジャーヒディーンを支援するべくイスラム諸国から集まった義勇兵の中にはウサーマ・ビン・ラーディンという名前の男もいましたが、それはまた別のお話。
1980年1月にアメリカがソ連のアフガニスタン侵攻を口実にボイコットを主唱したことで、各国も決断を迫られます。
日本では前年から「頑張れニッポン! モスクワは近い!」というCMに代表されるキャンペーンを積極的に行っていたため文字通り水を差される形となり、大会ボイコットの方針を掲げる日本政府と大会参加への道を模索する日本オリンピック委員会 (JOC)は真っ向から対立します。
そして1980年5月24日 、 JOC総会の挙手投票によってボイコットが決定されました。
この時の投票では「参加に投票した各種競技の団体者には今後予算を配分しない」という恐喝まがいの圧力がかけられていたことが明らかになっています。
モスクワ五輪への不参加を表明したのはアメリカを筆頭に日本、西ドイツ、韓国、そして反共的立場の強い諸国など50カ国近くに上った一方、イギリスやフランスなど欧州の西側諸国の大半はボイコットすることなく参加するなど自由主義陣営でも足並みが乱れ、同様に共産主義陣営でも当時ソ連と関係悪化していた中国が不参加に回るなど世界中があらゆる意味で二分される事態になりました。
この一連のボイコット騒動で一番割を食ったのは、言うまでも無く選手たちです。
出場機会を奪われそのまま引退に追い込まれた選手もいれば、次のロサンゼルス五輪でリベンジを果たした選手もいます。
そして、日本選手団の強みであった団体競技はこのモスクワ五輪ボイコットを契機に大きく失墜。
1960年のローマ五輪以来5連覇を成し遂げていた男子体操団体総合はこのボイコットを機に大低迷、2004年のアテネまで28年もの間金メダルから遠ざかり、体操王国の栄光を長らく地に落としてしまいました。
新東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールもメダル獲得はおろか出場権すら危ぶまれるほどに弱体化。
男子ホッケーと女子ハンドボールに至ってはこのボイコット以降、一度も出場権の獲得すら出来ていません。
このモスクワ五輪集団ボイコットはオリンピックの性質そのものを変化させることになりました。
「この問題に対してIOCはコメントする立場にない。一切関わらず、責任は負わない」
そのような不干渉とも無関心ともとれる発言に批判が集中したことを受けて、IOCのモリス会長は辞任に追い込まれます。
新たなIOC会長はこれ以上の政治介入を避けるため、政治よりも強い力――『カネ』の力に目を付けました。
プロ選手の出場解禁、テレビ放映権や公式スポンサー契約。
それらはオリンピックの場に商業主義を持ち込むという批判も多く浴びましたが、そのビッグマネーがもたらす経済効果は各国の政治すら左右する影響力を有することになりました。
かつて政治に振り回されたオリンピックは、逆に政治を振り回す権力へと変貌していきます。
その新たな『ドン』として2001年まで君臨したIOC会長の名前はフアン・アントニオ・サマランチ。
日本でもよく知られている『サマランチ会長』その人です。
オリンピックが掲げた理念が、政治によって捻じ曲げられる。
1979年12月、翌年のモスクワ五輪開催を控えたソ連がアフガニスタンへ侵攻したことで国際問題は一気に表面化します。
ソ連のアフガニスタン侵攻はアフガニスタン国内のイスラム過激派(ムジャーヒディーン)の排除という側面もあり、そのムジャーヒディーンは「敵の敵は味方」という単純な理論でアメリカを筆頭とする西側諸国の支援を受けていたため実質的には代理戦争に近い形となっていました。
そのムジャーヒディーンを支援するべくイスラム諸国から集まった義勇兵の中にはウサーマ・ビン・ラーディンという名前の男もいましたが、それはまた別のお話。
1980年1月にアメリカがソ連のアフガニスタン侵攻を口実にボイコットを主唱したことで、各国も決断を迫られます。
日本では前年から「頑張れニッポン! モスクワは近い!」というCMに代表されるキャンペーンを積極的に行っていたため文字通り水を差される形となり、大会ボイコットの方針を掲げる日本政府と大会参加への道を模索する日本オリンピック委員会 (JOC)は真っ向から対立します。
そして1980年5月24日 、 JOC総会の挙手投票によってボイコットが決定されました。
この時の投票では「参加に投票した各種競技の団体者には今後予算を配分しない」という恐喝まがいの圧力がかけられていたことが明らかになっています。
モスクワ五輪への不参加を表明したのはアメリカを筆頭に日本、西ドイツ、韓国、そして反共的立場の強い諸国など50カ国近くに上った一方、イギリスやフランスなど欧州の西側諸国の大半はボイコットすることなく参加するなど自由主義陣営でも足並みが乱れ、同様に共産主義陣営でも当時ソ連と関係悪化していた中国が不参加に回るなど世界中があらゆる意味で二分される事態になりました。
この一連のボイコット騒動で一番割を食ったのは、言うまでも無く選手たちです。
出場機会を奪われそのまま引退に追い込まれた選手もいれば、次のロサンゼルス五輪でリベンジを果たした選手もいます。
そして、日本選手団の強みであった団体競技はこのモスクワ五輪ボイコットを契機に大きく失墜。
1960年のローマ五輪以来5連覇を成し遂げていた男子体操団体総合はこのボイコットを機に大低迷、2004年のアテネまで28年もの間金メダルから遠ざかり、体操王国の栄光を長らく地に落としてしまいました。
新東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールもメダル獲得はおろか出場権すら危ぶまれるほどに弱体化。
男子ホッケーと女子ハンドボールに至ってはこのボイコット以降、一度も出場権の獲得すら出来ていません。
このモスクワ五輪集団ボイコットはオリンピックの性質そのものを変化させることになりました。
「この問題に対してIOCはコメントする立場にない。一切関わらず、責任は負わない」
そのような不干渉とも無関心ともとれる発言に批判が集中したことを受けて、IOCのモリス会長は辞任に追い込まれます。
新たなIOC会長はこれ以上の政治介入を避けるため、政治よりも強い力――『カネ』の力に目を付けました。
プロ選手の出場解禁、テレビ放映権や公式スポンサー契約。
それらはオリンピックの場に商業主義を持ち込むという批判も多く浴びましたが、そのビッグマネーがもたらす経済効果は各国の政治すら左右する影響力を有することになりました。
かつて政治に振り回されたオリンピックは、逆に政治を振り回す権力へと変貌していきます。
その新たな『ドン』として2001年まで君臨したIOC会長の名前はフアン・アントニオ・サマランチ。
日本でもよく知られている『サマランチ会長』その人です。
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