遂に関ケ原関連の話題を取り上げる日がやって参りました。
本日以降は関ケ原に関する記事が増えます(たぶん)


細川ガラシャの洗礼名で知られる女性、明智たま。
明智光秀の三女である彼女は実に数奇な運命を辿りました。
ガラシャは光秀と同様に織田信長の家臣であった細川藤孝の嫡男・忠興と結婚します。
元々光秀と藤孝は足利将軍家に仕えていた同僚であり、同じ丹波地方の領主として親密な関係だったようです。


しかし、本能寺の変が全てを狂わせました。
同じく光秀の娘を妻としていた津田信澄が共謀の疑いを向けられて誅殺された以上、細川家が生き残るためには身の潔白を何らかの形で表明する必要がありました。
そのために忠興はガラシャを屋敷から追放して別邸に幽閉、事実上の離別という扱いにしています。
その後山崎の戦いで光秀はじめ一族や重臣は殆どが誅殺されたため、ガラシャは明智家唯一の生き残りになりました。


羽柴秀吉が信長の後継者としての地位を盤石にした1583年ごろには幽閉も解かれ、大坂城下の屋敷に居を移します。
別居を強いられたとはいえ夫婦仲は良好だったようで、次男・三男を立て続けに授かっています。
しかし謀叛人の娘という立場上ガラシャへ向けられる周囲の目は厳しく、ガラシャには屋敷からの外出時のみならず訪問客にすら厳しい監視をつけることを忠興が命じており、コレがいわゆる『細川忠興ヤンデレ説』としてネット上で語られることがしばしば。


このような心労が重なる中でガラシャは次第にキリスト教への救いを求めるようになります。
1587年のバテレン追放令を機に最後のチャンスを逃すまいとガラシャは侍女に命じて自分の代わりに宣教師に会いに行かせ、そこで洗礼を受けた侍女から『代洗』という形でキリスト教に入信しました。
当初はガラシャの回心に厳しい立場をとっていた夫の忠興でしたが、親友の高山右近からの口添えもあって次第にキリスト教への理解を示すようになったようです。


そして、運命の日が訪れます。
1600年(慶長5年)、徳川家康に従って忠興が上杉征伐に出陣すると、石田三成ら西軍諸将は大名の家族を人質として確保する作戦を開始します。
その最初のターゲットとされたのがガラシャでした。
西軍は人質要求を拒めば実力行使も辞さないと通達しましたが、屋敷にいるガラシャたちは完全拒否。
8月25日(慶長5年7月17日)、西軍が屋敷を取り囲む中でガラシャは命を落とします。
その最期は家臣の手によって介錯され、その家臣も屋敷に火を放った後に切腹して果てたとされています。


ガラシャが人質になるのを拒んで壮絶な死を遂げたことで、西軍は人質作戦の方針転換を迫られます。
そしてガラシャの死を伝え聞いた忠興は西軍への憎悪を露わにし、細川軍は先鋒・福島正則に続く第二陣として関ヶ原の最前線で鬼神のごとく暴れまわり、戦後に家康から大いに褒章を授かりました。
1601年、新たな赴任先の豊前で忠興はガラシャの葬儀を執り行います。
忠興の要望で葬儀は教会式で執り行われ、彼女の生き様に感化された人々1000人以上がミサに参列したと伝わっています。

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