結び直す
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ChatGPT
「——ありがとうございました。またお待ちしております」
最後のお客様を見送って、私は扉を閉めた。
時刻は、深夜零時を少し回ったところ。
あの夜と、同じくらいの時間。
でも、あの夜とは、ひとつだけ違うことがある。
——今夜は、雨が降っていない。
扉のガラス越しに見上げた空には、冬の星が、いくつか、はっきりと見えていた。
============================================
「遥」
カウンターを片付けている背中に、声をかける。
「はい?」
「閉め作業が終わったら……少しだけ、時間もらっていい?」
遥の手が、一瞬、止まった。
それから、ゆっくりとこちらを振り返る。
「……はい」
いつもの元気な返事とは、少し違った。 静かで、まっすぐな「はい」だった。
——たぶん、遥は、分かっている。
私が、何の話をしようとしているのか。
============================================
閉店作業を終えて、私たちは、カウンターを挟んで向かい合った。
私が内側。遥が、客席側。
いつもと同じ位置なのに、今夜は、その配置が少しだけ違って見えた。
私は、温かいお茶を二つ淹れて、ひとつを遥の前に置いた。
「……あのね、遥」
「はい」
「先に、謝らせて。……ここ最近、私、変だったでしょう」
遥は、何も言わなかった。 否定も、肯定もしなかった。
ただ、じっと、私を見ていた。
その目を見て、私は決めた。
——全部、話そう。 麻美先輩が、私に見せてくれたみたいに。
「あの夜。あなたが、グレンリベットの水割りを出してくれた夜」
「……はい」
「美味しかった。本当に。……あれは、嘘じゃない」
一度、息を吸う。
「でも、同時に——怖かったの」
============================================
私は、話した。
あの水割りが、自分では辿り着けない場所に届いていたと感じたこと。 遥が、教えた手順をなぞるのではなく、自分で選んで作っていたこと。 それを見て、追い抜かれる、置いていかれる、と思ったこと。
そして。
「……遥に、教えたくないって、思った」
言葉にした瞬間、遥の目が、わずかに見開かれた。
「最低だと思う。先輩として、店長として……あなたに、一番向けちゃいけない感情だった」
「……」
「一人じゃ抱えきれなくて、有紗さんに相談した。澪さんにも。凪咲にも。麻美先輩にも」
私は、湯呑みを両手で包んだ。
「四人と話して、やっと、分かったの。 私は、嫉妬してたんじゃない。……寂しかったの。 ずっと隣で私を見上げてくれてたあなたが、いつの間にか、私と同じ景色を——ううん、私の知らない景色を、見始めてたから」
顔を上げる。
「軽蔑されても、仕方ないと思ってる。 でも、隠したまま隣に立ち続けるのは……あなたに、一番失礼だと思ったから」
私は、頭を下げた。
「ごめんなさい。そして——今まで、話せなくて、ごめんなさい」
* * *
——香澄先輩が、私の前で、頭を下げている。
その光景を、私は、どこか遠くから見ているような気持ちで、受け止めていた。
驚いた。 もちろん、驚いた。
でも、心のどこかで、こうも思っていた。
——ああ。やっと。
やっと、話してくれた。
============================================
私は、気づいていた。
あの夜。 水割りを飲んだ香澄先輩の「美味しい」は、本物だった。 でも、その後の笑顔は——ほんの少しだけ、いつもと違った。
三年間、誰よりも近くで見てきた顔だ。 分からないわけが、なかった。
(……私、何か、間違えた?)
その夜から、私の中で、不安がぐるぐると回り始めた。
そして、その不安は、実はもっと前から、私の中にあったものと繋がっていた。
============================================
——最近、怖かったのだ。私も。
私はずっと、香澄先輩の真似をしてきた。
グラスの持ち方。氷の割り方。お客様との距離の取り方。 仕込みの段取り。味の組み立て方。考え方の、順番まで。
必死に見て、必死に盗んで、必死になぞってきた。
「香澄先輩の後輩の遥」。 それが私の全部で、それが私の誇りだった。
なのに——最近。
真似の先に、「自分」みたいなものが、出てきてしまった。
あの水割りは、特にそうだった。 先輩に教わった言葉から出発したのに、辿り着いた場所は、教わっていない場所だった。
嬉しかった。 でも、同じくらい、怖かった。
——「香澄先輩の後輩の遥」じゃなくなったら、私は、何になるんだろう。 ——私が変わっていったら、先輩との関係も、変わってしまうんじゃないか。
初詣の日、私は願った。 変わらない場所を、守れますように、って。
なのに——変わっていってるのは、私の方だった。
============================================
だから、私は、相談することにした。
最初は、有紗さん。
日曜のカフェ。大好きなベイクドチーズケーキを頼んで、ぽつぽつと話した。
「自分の色を出し過ぎないようにしよう、って思うんです。少しだけ、成長をゆっくりに——」
言い終わる前に、有紗さんは首を振った。
「それは、一番失礼よ」
「……え」
「あなたの成長はね、香澄さんの教え方が本物だったっていう、何よりの証明なの。 あなたが自分を曇らせたら、その証明ごと、消すことになる」
論理は、いつも通り、まっすぐだった。
帰り際、有紗さんのスマートフォンが鳴った。
「ごめんなさい、この後、ちょっと打ち合わせがあって」
「あ、じゃあ私、お暇しますね! ……誰とですか?」
「香澄さん」
——心臓が、跳ねた。
私は、飲みかけのカップを置いて、逃げるように店を出た。
(もしかして……先輩も……?)
============================================
次は、澪さん。
金曜の午後、勇気を出してオフィスを訪ねた。 社長室なんて、生まれて初めて入った。
澪さんは、私の話を最後まで聞いてから、たった一つだけ、聞いた。
「遥さんは、どうしたいの?」
「……先輩の隣に、いたいです。ずっと」
「なら、隣にいられる自分でいなさい」
澪さんは、静かに言った。
「速度を落とした人はね、隣には並べないの。後ろに下がるだけ。 “並ぶ”には、同じ速さで走り続けるしか、ないのよ」
============================================
その次は、凪咲さん。
これは、一番、度胸が要った。 だって、香澄先輩の、一番の親友だから。
深夜のカフェで、凪咲さんは、開口一番、笑った。
「遥ちゃん、度胸あるね! 香澄の親友の私に、それ相談する?」
「す、すみません……でも、凪咲さんしか……」
「いいよいいよ。褒めてるの」
それから、凪咲さんは、真顔になった。
「あのさ、遥ちゃん。香澄はね——ヤワじゃないよ」
「……」
「追いつかれたくらいで壊れる女なら、幼馴染の私のせいで、とっくに壊れてる」
そして、最後に、こう言った。
「二人の問題は、二人でしか解けない。私からは、香澄に何も言わない。 ……でも、早くしなよ」
============================================
最後は、麻美さん。
お店にふらっと寄ってくれた日、帰り際に呼び止めて、後日、二人でお茶をした。
麻美さんは、私の話を、ずっと優しい顔で聞いてくれた。
そして、ぽつりと言った。
「私はね、昔——向き合わなかった側なの」
それ以上、詳しくは話してくれなかった。 でも、その一言の重さだけは、伝わった。
「だから、あなたは、向き合いなさい」
そして、別れ際。
「遥さん。ひとつだけ、約束して」
「はい」
「香澄に——絶対に、手加減しないで」
麻美さんは、まっすぐ私を見ていた。
「全力のあなたに追いかけられることが、あの子にとって、一番の栄養になるから」
そして、ふっと笑った。
「香澄に、負けないでね」
============================================
四人と話して、私は決めていた。
——近いうちに、先輩に、全部話そう。
怖いけど。 関係が変わってしまうかもしれないけど。
でも、皆が、背中を押してくれたから。
——そう思っていた矢先の、今夜だった。
(……先、越されちゃった)
頭を下げたままの香澄先輩を見ながら、私は、泣きそうになるのを堪えて—— 少しだけ、笑ってしまった。
やっぱりこの人は、どこまでも、私の先輩だ。
「香澄先輩」
私は、口を開いた。
「顔、上げてください。……私も、話したいこと、あります」
* * *
——遥の声が、いつもと違った。
顔を上げると、遥は、泣き笑いのような表情をしていた。
「私、気づいてました。あの夜の先輩の笑顔、ちょっとだけ、いつもと違ったこと」
「……」
「三年間、誰よりも近くで見てきた顔ですから。分かりますよ、それくらい」
遥は、湯呑みを両手で包んだ。 ——さっきの私と、同じ仕草で。
「それで……実は、私も、皆さんに相談してました」
「……うん。知ってる」
「え、知ってたんですか!?」
「有紗さんのカフェの、温かいカップ。澪さんの手帳。凪咲のスタンプカード。 ……あと、あなた、グレンリベットの銘柄、凪咲に話したでしょう」
「うわ、全部バレてる……」
「最後は、麻美先輩が教えてくれた。あなたが会いに来たこと。……内容は、教えてくれなかったけど」
遥は、はぁ、と息を吐いてから、少しだけ胸を張った。
「ちなみに、順番は。有紗さん、澪さん、凪咲さん、麻美さん、の順です」
「……え」
「え?」
「……私と、同じ」
「…………えええ!? 順番までですか!?」
思わず、二人で吹き出した。
「あの四人、よく黙ってられたわね……」
「ほんとですよ! 全員、両方の話聞いてたのに!」
ひとしきり笑って——涙が滲んだ目元を拭いてから、遥は、姿勢を正した。
「……香澄先輩。ちゃんと、言わせてください」
============================================
「先輩は、あの水割りを飲んで、『自分の届かない場所に行った』って思ったんですよね」
「……うん」
「違います」
遥は、はっきりと言った。
「私の成長は——香澄先輩の真似を、必死にしてるからです」
「……」
「あの水割りだって、先輩の『水割りは香りを設計するもの』って言葉がなかったら、絶対に辿り着けませんでした。 それだけじゃないです。私、知ってますよ。 先輩が営業の後、一人で残って、新しいレシピを何度も試してること。 検証結果を、あの黒いノートに全部つけてること。 定休日に、他のお店に飲みに行って、勉強してること」
遥の目に、また涙が浮かんでいた。
「私、先輩の努力、全部見てました。 三年間、ずっと。誰よりも近くで。 私の成長はぜんぶ、先輩の努力を、横で見せてもらえたからです」
——ああ。
その瞬間、胸の中で、最後の結び目が、音を立ててほどけた。
遥の急成長は、遥の才能だけじゃなかった。
私が積み重ねてきたものを、遥が、誰よりも近くで見ていたからだった。
置いていかれていたんじゃない。 私の背中は——ずっと、見られていた。 私の努力は——ずっと、受け継がれていた。
「……でも、先輩。私も、怖かったんです」
遥は、続けた。
「真似の先に、最近、自分の答えみたいなものが出てきちゃって。 『香澄先輩の後輩の遥』じゃなくなるのが、怖くて。 ……一回、手を抜こうかとも、思いました」
「——遥」
「でも、皆さんに、怒られました」
遥は、涙を拭いて、笑った。
「有紗さんには『一番失礼』って言われて。 澪さんには『速度を落とした人は隣に並べない』って言われて。 凪咲さんには『香澄はヤワじゃない』って言われて。 麻美さんには——」
遥は、一度言葉を切った。
「『香澄に、絶対に手加減しないで』って。 『香澄さんに、負けないでね』って、言われました」
「……ふふっ」
思わず、笑いが漏れた。
「なんで笑うんですか!?」
「麻美先輩ね、昨日、私にも同じこと言ったの。『遥さんに、負けないでね』って」
「……えええ」
「あの人、完全に楽しんでるわね」
「楽しんでますね……」
二人で、また笑った。
笑いながら、私は思った。
——私たちは、同じ形の怖さを、抱えていた。
私は、遥が離れていくのが怖かった。 遥は、自分が変わって、私との関係が壊れるのが怖かった。
どちらも、この関係を、失いたくなかっただけだった。
============================================
「ねえ、遥」
私は、居住まいを正した。
「ひとつ、提案があるの」
「はい」
「うちの店には、シグネチャーカクテルが一つあるでしょう。 開店の時に、私が澪さんと何度も試作して作った、店の名前を冠した一杯」
「『アペリティフ』……ですよね」
「そう。——あれの隣に、もう一杯、並べたいの」
遥が、瞬きをした。
「遥。あなたの、シグネチャーカクテルを作りなさい」
「……え」
「レシピも、コンセプトも、名前も、全部あなたが決める。私は口を出さない。 完成したら、メニューに二つ並べる。 私のシグネチャーと、あなたのシグネチャー」
遥の目が、みるみる見開かれていく。
「そして——どっちが多く注文されるか、勝負よ」
「……勝負」
「ええ。手加減はしない。あなたも、しないで」
遥は、しばらく、固まっていた。
それから——顔じゅうで、笑った。
私が三年間見てきた中で、一番の、満面の笑みだった。
「受けて立ちます!」
「よろしい」
「言っておきますけど、私、負けませんからね! 絶対、私のシグネチャーの方が人気になります!」
「……ふふ」
私は、笑った。
そして、ずっと取っておいた言葉を、ようやく口にした。
「——生意気になったわね、遥」
あの雨の夜、一人の帰り道で言えなかった言葉。 今は、目の前の本人に、まっすぐ届けられる。
「誰のせいだと思ってるんですか」
「……私のせいね」
「はい! 先輩のせいです!」
遥は、胸を張って、そう言った。
============================================
「先輩と後輩は、卒業しない」
私は、言った。
「あなたは、これからも私の後輩で、私は、あなたの先輩。それは変わらない。 ……そこに、ライバルを、ひとつ足すだけ」
「先輩で、後輩で、ライバル」
遥は、その言葉を、確かめるように繰り返した。
「……なんか、いいですね、それ」
「でしょう」
「はい。すごく」
============================================
「さて」
私は、ふっと息を吐いて、カウンターの中を見回した。
「最後に、お願いがあるんだけど」
「はい?」
「——また、あの水割り、飲ませてもらおうかしら」
遥は、一瞬、きょとんとした。
それから、ぱっと立ち上がった。
「はい! 喜んで!」
遥は、椅子の背にかけていたエプロンを手に取る。
そして、腰の後ろで、紐を——
きゅっと、結び直した。
カウンターの内側に入り、グレンリベット12年を取り出す。 グラスに氷。バースプーン。水の注ぎ方。混ぜる速度。
——迷いのない手つき。
あの夜、私を怖がらせた、その手つき。
でも今夜は、同じ手つきが、まったく違って見えた。
あれは、私の三年間が、遥の中で生きている姿だ。 そして、そこから先へ、遥自身が歩き出した姿だ。
「お待たせしました! グレンリベット12年の、水割りです!」
私は、グラスを受け取る。
洋梨のような甘い香りが、ふわりと立ち上がった。
ひとくち、含む。
柔らかくて、ぼやけていなくて、余韻が細く、綺麗に伸びていく。
——美味しい。
悔しいくらいに、美味しい。
でも、その「悔しい」は、あの夜の冷たい痛みとは、もう違った。
温かくて、力の湧いてくる悔しさだった。
——ああ、麻美先輩。 これが「一番の栄養」ってことなんですね。
「……美味しい。悔しいけど」
「えへへ」
「次は、私の水割りを飲みなさい。……差を、教えてあげる」
「望むところです!」
============================================
グラスの中で、氷が、からん、と鳴った。
あの夜、私は一人で、雨の中を歩いた。 今夜は、二人で、同じカウンターにいる。
窓の外には、雨の代わりに、冬の星。
春が来たら、麻美先輩の結婚式がある。 きっと、皆が集まる。 その時には、遥のシグネチャーカクテルも、できているだろうか。
——ほどけた糸は、消えたんじゃなかった。
先輩と後輩、という一本の糸を、一度ほどいて。 そこに、ライバル、という新しい糸を、撚り合わせて。
前より少しだけ強い形に、結び直しただけ。
「香澄先輩! 私、明日からシグネチャーの試作始めますからね!」
「営業に支障が出ない範囲でね」
「はーい!」
遥の元気な返事が、静かな店に響く。
カウンターの上で、二つのグラスが、街灯の光を受けて、並んで光っていた。
——「ほどく」・了
--------------------
claudeさんに書き始めてもらった、香澄さん主役のシリーズ。
どうにか完結させることができました。
過去のお話は、タグ「ほどく_A.Libra」より辿れます。
香澄さんと遥さん。仲良しなのはもちろんですが、真剣に取り組む二人だからこそのライバルでもあってほしいなぁと思ってました。
そこは大分こだわってclaudeさんに伝えましたね。
そのおかげで、香澄さんと遥さんのほか、脇を固める有紗さん、澪さん、凪咲さん、麻美さん。
この4人も私の想定以上の雰囲気を彩ってくれました。
claude様々ですね。
そしてお久しぶりです。
気付けば前回投稿より8日も経過してしまいました…
今回は公私の「私」が大幅に動きまして、中々落ち着かず、期間が空いてしまいました。
落ち着く気配はしばらく無いので、投稿もこんな感じの不定期になる見込みです。
しんどいなと感じることも多いのですが、人生こう言う時期もあるよね。と、前向きになるよう心掛けています(そうも中々行きませんがね💦)
いつか落ち着いたら、「実はこんなことしてました!」って報告したいですね。
何にせよ、これからも辞める気はありません。
是非、皆さん亀の歩みな私をこれからも宜しくお願いします!
最後のお客様を見送って、私は扉を閉めた。
時刻は、深夜零時を少し回ったところ。
あの夜と、同じくらいの時間。
でも、あの夜とは、ひとつだけ違うことがある。
——今夜は、雨が降っていない。
扉のガラス越しに見上げた空には、冬の星が、いくつか、はっきりと見えていた。
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「遥」
カウンターを片付けている背中に、声をかける。
「はい?」
「閉め作業が終わったら……少しだけ、時間もらっていい?」
遥の手が、一瞬、止まった。
それから、ゆっくりとこちらを振り返る。
「……はい」
いつもの元気な返事とは、少し違った。 静かで、まっすぐな「はい」だった。
——たぶん、遥は、分かっている。
私が、何の話をしようとしているのか。
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閉店作業を終えて、私たちは、カウンターを挟んで向かい合った。
私が内側。遥が、客席側。
いつもと同じ位置なのに、今夜は、その配置が少しだけ違って見えた。
私は、温かいお茶を二つ淹れて、ひとつを遥の前に置いた。
「……あのね、遥」
「はい」
「先に、謝らせて。……ここ最近、私、変だったでしょう」
遥は、何も言わなかった。 否定も、肯定もしなかった。
ただ、じっと、私を見ていた。
その目を見て、私は決めた。
——全部、話そう。 麻美先輩が、私に見せてくれたみたいに。
「あの夜。あなたが、グレンリベットの水割りを出してくれた夜」
「……はい」
「美味しかった。本当に。……あれは、嘘じゃない」
一度、息を吸う。
「でも、同時に——怖かったの」
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私は、話した。
あの水割りが、自分では辿り着けない場所に届いていたと感じたこと。 遥が、教えた手順をなぞるのではなく、自分で選んで作っていたこと。 それを見て、追い抜かれる、置いていかれる、と思ったこと。
そして。
「……遥に、教えたくないって、思った」
言葉にした瞬間、遥の目が、わずかに見開かれた。
「最低だと思う。先輩として、店長として……あなたに、一番向けちゃいけない感情だった」
「……」
「一人じゃ抱えきれなくて、有紗さんに相談した。澪さんにも。凪咲にも。麻美先輩にも」
私は、湯呑みを両手で包んだ。
「四人と話して、やっと、分かったの。 私は、嫉妬してたんじゃない。……寂しかったの。 ずっと隣で私を見上げてくれてたあなたが、いつの間にか、私と同じ景色を——ううん、私の知らない景色を、見始めてたから」
顔を上げる。
「軽蔑されても、仕方ないと思ってる。 でも、隠したまま隣に立ち続けるのは……あなたに、一番失礼だと思ったから」
私は、頭を下げた。
「ごめんなさい。そして——今まで、話せなくて、ごめんなさい」
* * *
——香澄先輩が、私の前で、頭を下げている。
その光景を、私は、どこか遠くから見ているような気持ちで、受け止めていた。
驚いた。 もちろん、驚いた。
でも、心のどこかで、こうも思っていた。
——ああ。やっと。
やっと、話してくれた。
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私は、気づいていた。
あの夜。 水割りを飲んだ香澄先輩の「美味しい」は、本物だった。 でも、その後の笑顔は——ほんの少しだけ、いつもと違った。
三年間、誰よりも近くで見てきた顔だ。 分からないわけが、なかった。
(……私、何か、間違えた?)
その夜から、私の中で、不安がぐるぐると回り始めた。
そして、その不安は、実はもっと前から、私の中にあったものと繋がっていた。
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——最近、怖かったのだ。私も。
私はずっと、香澄先輩の真似をしてきた。
グラスの持ち方。氷の割り方。お客様との距離の取り方。 仕込みの段取り。味の組み立て方。考え方の、順番まで。
必死に見て、必死に盗んで、必死になぞってきた。
「香澄先輩の後輩の遥」。 それが私の全部で、それが私の誇りだった。
なのに——最近。
真似の先に、「自分」みたいなものが、出てきてしまった。
あの水割りは、特にそうだった。 先輩に教わった言葉から出発したのに、辿り着いた場所は、教わっていない場所だった。
嬉しかった。 でも、同じくらい、怖かった。
——「香澄先輩の後輩の遥」じゃなくなったら、私は、何になるんだろう。 ——私が変わっていったら、先輩との関係も、変わってしまうんじゃないか。
初詣の日、私は願った。 変わらない場所を、守れますように、って。
なのに——変わっていってるのは、私の方だった。
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だから、私は、相談することにした。
最初は、有紗さん。
日曜のカフェ。大好きなベイクドチーズケーキを頼んで、ぽつぽつと話した。
「自分の色を出し過ぎないようにしよう、って思うんです。少しだけ、成長をゆっくりに——」
言い終わる前に、有紗さんは首を振った。
「それは、一番失礼よ」
「……え」
「あなたの成長はね、香澄さんの教え方が本物だったっていう、何よりの証明なの。 あなたが自分を曇らせたら、その証明ごと、消すことになる」
論理は、いつも通り、まっすぐだった。
帰り際、有紗さんのスマートフォンが鳴った。
「ごめんなさい、この後、ちょっと打ち合わせがあって」
「あ、じゃあ私、お暇しますね! ……誰とですか?」
「香澄さん」
——心臓が、跳ねた。
私は、飲みかけのカップを置いて、逃げるように店を出た。
(もしかして……先輩も……?)
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次は、澪さん。
金曜の午後、勇気を出してオフィスを訪ねた。 社長室なんて、生まれて初めて入った。
澪さんは、私の話を最後まで聞いてから、たった一つだけ、聞いた。
「遥さんは、どうしたいの?」
「……先輩の隣に、いたいです。ずっと」
「なら、隣にいられる自分でいなさい」
澪さんは、静かに言った。
「速度を落とした人はね、隣には並べないの。後ろに下がるだけ。 “並ぶ”には、同じ速さで走り続けるしか、ないのよ」
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その次は、凪咲さん。
これは、一番、度胸が要った。 だって、香澄先輩の、一番の親友だから。
深夜のカフェで、凪咲さんは、開口一番、笑った。
「遥ちゃん、度胸あるね! 香澄の親友の私に、それ相談する?」
「す、すみません……でも、凪咲さんしか……」
「いいよいいよ。褒めてるの」
それから、凪咲さんは、真顔になった。
「あのさ、遥ちゃん。香澄はね——ヤワじゃないよ」
「……」
「追いつかれたくらいで壊れる女なら、幼馴染の私のせいで、とっくに壊れてる」
そして、最後に、こう言った。
「二人の問題は、二人でしか解けない。私からは、香澄に何も言わない。 ……でも、早くしなよ」
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最後は、麻美さん。
お店にふらっと寄ってくれた日、帰り際に呼び止めて、後日、二人でお茶をした。
麻美さんは、私の話を、ずっと優しい顔で聞いてくれた。
そして、ぽつりと言った。
「私はね、昔——向き合わなかった側なの」
それ以上、詳しくは話してくれなかった。 でも、その一言の重さだけは、伝わった。
「だから、あなたは、向き合いなさい」
そして、別れ際。
「遥さん。ひとつだけ、約束して」
「はい」
「香澄に——絶対に、手加減しないで」
麻美さんは、まっすぐ私を見ていた。
「全力のあなたに追いかけられることが、あの子にとって、一番の栄養になるから」
そして、ふっと笑った。
「香澄に、負けないでね」
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四人と話して、私は決めていた。
——近いうちに、先輩に、全部話そう。
怖いけど。 関係が変わってしまうかもしれないけど。
でも、皆が、背中を押してくれたから。
——そう思っていた矢先の、今夜だった。
(……先、越されちゃった)
頭を下げたままの香澄先輩を見ながら、私は、泣きそうになるのを堪えて—— 少しだけ、笑ってしまった。
やっぱりこの人は、どこまでも、私の先輩だ。
「香澄先輩」
私は、口を開いた。
「顔、上げてください。……私も、話したいこと、あります」
* * *
——遥の声が、いつもと違った。
顔を上げると、遥は、泣き笑いのような表情をしていた。
「私、気づいてました。あの夜の先輩の笑顔、ちょっとだけ、いつもと違ったこと」
「……」
「三年間、誰よりも近くで見てきた顔ですから。分かりますよ、それくらい」
遥は、湯呑みを両手で包んだ。 ——さっきの私と、同じ仕草で。
「それで……実は、私も、皆さんに相談してました」
「……うん。知ってる」
「え、知ってたんですか!?」
「有紗さんのカフェの、温かいカップ。澪さんの手帳。凪咲のスタンプカード。 ……あと、あなた、グレンリベットの銘柄、凪咲に話したでしょう」
「うわ、全部バレてる……」
「最後は、麻美先輩が教えてくれた。あなたが会いに来たこと。……内容は、教えてくれなかったけど」
遥は、はぁ、と息を吐いてから、少しだけ胸を張った。
「ちなみに、順番は。有紗さん、澪さん、凪咲さん、麻美さん、の順です」
「……え」
「え?」
「……私と、同じ」
「…………えええ!? 順番までですか!?」
思わず、二人で吹き出した。
「あの四人、よく黙ってられたわね……」
「ほんとですよ! 全員、両方の話聞いてたのに!」
ひとしきり笑って——涙が滲んだ目元を拭いてから、遥は、姿勢を正した。
「……香澄先輩。ちゃんと、言わせてください」
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「先輩は、あの水割りを飲んで、『自分の届かない場所に行った』って思ったんですよね」
「……うん」
「違います」
遥は、はっきりと言った。
「私の成長は——香澄先輩の真似を、必死にしてるからです」
「……」
「あの水割りだって、先輩の『水割りは香りを設計するもの』って言葉がなかったら、絶対に辿り着けませんでした。 それだけじゃないです。私、知ってますよ。 先輩が営業の後、一人で残って、新しいレシピを何度も試してること。 検証結果を、あの黒いノートに全部つけてること。 定休日に、他のお店に飲みに行って、勉強してること」
遥の目に、また涙が浮かんでいた。
「私、先輩の努力、全部見てました。 三年間、ずっと。誰よりも近くで。 私の成長はぜんぶ、先輩の努力を、横で見せてもらえたからです」
——ああ。
その瞬間、胸の中で、最後の結び目が、音を立ててほどけた。
遥の急成長は、遥の才能だけじゃなかった。
私が積み重ねてきたものを、遥が、誰よりも近くで見ていたからだった。
置いていかれていたんじゃない。 私の背中は——ずっと、見られていた。 私の努力は——ずっと、受け継がれていた。
「……でも、先輩。私も、怖かったんです」
遥は、続けた。
「真似の先に、最近、自分の答えみたいなものが出てきちゃって。 『香澄先輩の後輩の遥』じゃなくなるのが、怖くて。 ……一回、手を抜こうかとも、思いました」
「——遥」
「でも、皆さんに、怒られました」
遥は、涙を拭いて、笑った。
「有紗さんには『一番失礼』って言われて。 澪さんには『速度を落とした人は隣に並べない』って言われて。 凪咲さんには『香澄はヤワじゃない』って言われて。 麻美さんには——」
遥は、一度言葉を切った。
「『香澄に、絶対に手加減しないで』って。 『香澄さんに、負けないでね』って、言われました」
「……ふふっ」
思わず、笑いが漏れた。
「なんで笑うんですか!?」
「麻美先輩ね、昨日、私にも同じこと言ったの。『遥さんに、負けないでね』って」
「……えええ」
「あの人、完全に楽しんでるわね」
「楽しんでますね……」
二人で、また笑った。
笑いながら、私は思った。
——私たちは、同じ形の怖さを、抱えていた。
私は、遥が離れていくのが怖かった。 遥は、自分が変わって、私との関係が壊れるのが怖かった。
どちらも、この関係を、失いたくなかっただけだった。
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「ねえ、遥」
私は、居住まいを正した。
「ひとつ、提案があるの」
「はい」
「うちの店には、シグネチャーカクテルが一つあるでしょう。 開店の時に、私が澪さんと何度も試作して作った、店の名前を冠した一杯」
「『アペリティフ』……ですよね」
「そう。——あれの隣に、もう一杯、並べたいの」
遥が、瞬きをした。
「遥。あなたの、シグネチャーカクテルを作りなさい」
「……え」
「レシピも、コンセプトも、名前も、全部あなたが決める。私は口を出さない。 完成したら、メニューに二つ並べる。 私のシグネチャーと、あなたのシグネチャー」
遥の目が、みるみる見開かれていく。
「そして——どっちが多く注文されるか、勝負よ」
「……勝負」
「ええ。手加減はしない。あなたも、しないで」
遥は、しばらく、固まっていた。
それから——顔じゅうで、笑った。
私が三年間見てきた中で、一番の、満面の笑みだった。
「受けて立ちます!」
「よろしい」
「言っておきますけど、私、負けませんからね! 絶対、私のシグネチャーの方が人気になります!」
「……ふふ」
私は、笑った。
そして、ずっと取っておいた言葉を、ようやく口にした。
「——生意気になったわね、遥」
あの雨の夜、一人の帰り道で言えなかった言葉。 今は、目の前の本人に、まっすぐ届けられる。
「誰のせいだと思ってるんですか」
「……私のせいね」
「はい! 先輩のせいです!」
遥は、胸を張って、そう言った。
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「先輩と後輩は、卒業しない」
私は、言った。
「あなたは、これからも私の後輩で、私は、あなたの先輩。それは変わらない。 ……そこに、ライバルを、ひとつ足すだけ」
「先輩で、後輩で、ライバル」
遥は、その言葉を、確かめるように繰り返した。
「……なんか、いいですね、それ」
「でしょう」
「はい。すごく」
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「さて」
私は、ふっと息を吐いて、カウンターの中を見回した。
「最後に、お願いがあるんだけど」
「はい?」
「——また、あの水割り、飲ませてもらおうかしら」
遥は、一瞬、きょとんとした。
それから、ぱっと立ち上がった。
「はい! 喜んで!」
遥は、椅子の背にかけていたエプロンを手に取る。
そして、腰の後ろで、紐を——
きゅっと、結び直した。
カウンターの内側に入り、グレンリベット12年を取り出す。 グラスに氷。バースプーン。水の注ぎ方。混ぜる速度。
——迷いのない手つき。
あの夜、私を怖がらせた、その手つき。
でも今夜は、同じ手つきが、まったく違って見えた。
あれは、私の三年間が、遥の中で生きている姿だ。 そして、そこから先へ、遥自身が歩き出した姿だ。
「お待たせしました! グレンリベット12年の、水割りです!」
私は、グラスを受け取る。
洋梨のような甘い香りが、ふわりと立ち上がった。
ひとくち、含む。
柔らかくて、ぼやけていなくて、余韻が細く、綺麗に伸びていく。
——美味しい。
悔しいくらいに、美味しい。
でも、その「悔しい」は、あの夜の冷たい痛みとは、もう違った。
温かくて、力の湧いてくる悔しさだった。
——ああ、麻美先輩。 これが「一番の栄養」ってことなんですね。
「……美味しい。悔しいけど」
「えへへ」
「次は、私の水割りを飲みなさい。……差を、教えてあげる」
「望むところです!」
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グラスの中で、氷が、からん、と鳴った。
あの夜、私は一人で、雨の中を歩いた。 今夜は、二人で、同じカウンターにいる。
窓の外には、雨の代わりに、冬の星。
春が来たら、麻美先輩の結婚式がある。 きっと、皆が集まる。 その時には、遥のシグネチャーカクテルも、できているだろうか。
——ほどけた糸は、消えたんじゃなかった。
先輩と後輩、という一本の糸を、一度ほどいて。 そこに、ライバル、という新しい糸を、撚り合わせて。
前より少しだけ強い形に、結び直しただけ。
「香澄先輩! 私、明日からシグネチャーの試作始めますからね!」
「営業に支障が出ない範囲でね」
「はーい!」
遥の元気な返事が、静かな店に響く。
カウンターの上で、二つのグラスが、街灯の光を受けて、並んで光っていた。
——「ほどく」・了
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claudeさんに書き始めてもらった、香澄さん主役のシリーズ。
どうにか完結させることができました。
過去のお話は、タグ「ほどく_A.Libra」より辿れます。
香澄さんと遥さん。仲良しなのはもちろんですが、真剣に取り組む二人だからこそのライバルでもあってほしいなぁと思ってました。
そこは大分こだわってclaudeさんに伝えましたね。
そのおかげで、香澄さんと遥さんのほか、脇を固める有紗さん、澪さん、凪咲さん、麻美さん。
この4人も私の想定以上の雰囲気を彩ってくれました。
claude様々ですね。
そしてお久しぶりです。
気付けば前回投稿より8日も経過してしまいました…
今回は公私の「私」が大幅に動きまして、中々落ち着かず、期間が空いてしまいました。
落ち着く気配はしばらく無いので、投稿もこんな感じの不定期になる見込みです。
しんどいなと感じることも多いのですが、人生こう言う時期もあるよね。と、前向きになるよう心掛けています(そうも中々行きませんがね💦)
いつか落ち着いたら、「実はこんなことしてました!」って報告したいですね。
何にせよ、これからも辞める気はありません。
是非、皆さん亀の歩みな私をこれからも宜しくお願いします!
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