雨上がりだった。

昼間まで降っていた雨が、夜にはすっかり止んでいる。
けれど空気にはまだ水気が残っていて、アスファルトは街灯を鈍く反射していた。

凪咲はコートの襟を少しだけ引き寄せながら、バーへの道を歩く。

——最近、澪さんのことを考える時間が増えた。

それは恋愛感情とか、そういう単純な言葉では説明しづらい。
尊敬。憧れ。理解したい、という気持ち。
そして少しだけ、**“追いつきたい”**という感情。

前なら、あの人は雲の上の人だと思って終わっていた。

——でも、あの夜以来、違う。

別の店で偶然会い、二人だけのカウンターで、凪咲はあの人を「アンバサダー」と呼んだ。
そして、あの人は「そうかもしれないわね」と、静かに受け取った。

——あの人も迷う。
 傷つく。
 誰かの選択に悩み、自分の言葉が正しかったのか考える。

それを知ってしまったから。

知ってしまった以上、彼女は、もう前の自分には戻れない。

============================================

(チリンチリーン)

「いらっしゃいませ——あ、凪咲さん!」

遥ちゃんがぱっと笑顔を向ける。

「あれ、香澄は?」

「香澄先輩、今日は買い出しです。
 明日のディナー予約多めなので、追加で仕入れに行くそうです」

「ふぅん。じゃあ、戻ってくるまで遥ちゃんに付き合ってもらおうかな」

「お任せください!」

カウンターに腰掛けながら、店内を見回す。

平日の遅めの時間。
客入りは落ち着いているが、ゼロではない。
カウンターの端と、奥のテーブル席に、それぞれ静かに酒を楽しむ常連の姿があった。

——やっぱり、良い店だ。

ふと、そう思う。

単にオシャレとか、居心地が良いとか、そういうことじゃない。
ここには**“人が戻って来たくなる空気”**がある。

「今日は何にします?」

「んー……遥ちゃんに任せる」

「おっ、来ましたね、丸投げ注文!」

遥ちゃんは楽しそうにバックバーへ向かった。

その後ろ姿を見ながら、私は何となく考えていた。

——澪さんって、結局、なんなんだろう。

経営者。
オーナー。
カリスマ。

もちろん全部そうなんだけど、それだけじゃない。

あの人は、人を**“動かしている”**というより、
人が**“自分から動きたくなる”**空気を作っている。

有紗先輩もそうだった。

前は「頼まれたら助ける人」だったのに、
今は自分から踏み込んで、失敗して、悩んで、それでも前に進んでいる。

あれはきっと、澪さんが無理やり変えたわけじゃない。

——**“変わりたい”と思わせた**んだ。

============================================

「お待たせしました!」

置かれたのは、深い琥珀色のカクテル。

「マンハッタンです!」

「おお……渋いの来たねぇ」

「凪咲さん、最近ちょっと、大人っぽい顔して考え事してるので!」

「何それ」

「マンハッタンって、カクテルの女王って言われてるの知ってます?」

「うん」

「流石は凪咲さん!
 じゃあ、カクテル言葉は―」

遥ちゃんは、グラスを少し前に押し出した。

「『**切ない恋心**』」

「……」

凪咲は、思わず遥ちゃんの顔を見た。

遥ちゃんは、にっと笑う。

「何かありますよね、凪咲さん。今日」

「……読まれてるなあ」

「副店長ですから」

笑いながら、グラスを持ち上げる。

ライウイスキーの骨格。
ベルモットの甘さ。
ビターズの苦味。

強いのに、綺麗にまとまっている。

「……美味しい」

「でしょ?」

遥ちゃんは満足そうに頷いた。

============================================

少し迷ったあと、ぽつりと零す。

「……最近、澪さんのこと考えること、多くて」

「おぉ?」

遥ちゃんの目が、ちょっとだけ輝く。

「あ、違う違う。そういう意味じゃなくて」

「えー? ほんとですかー?」

「ほんとほんと」

でも、と凪咲は続けた。

「なんていうか……
 あの人、凄すぎるじゃん」

「はい、それは間違いないです」

遥ちゃんは迷いなく言い切った。

「でもね、最近ちょっと思うんです」

少しだけ、声を落とす。

「澪さんって、**“一人で全部背負い過ぎる”**んですよ」

「……」

私は、思わず黙った。

遥ちゃんがそこまで見ているのが、少し意外だった。

——いや。

副店長になって、香澄から店を任される夜が増えて、
たぶん遥ちゃんも、**澪さんを別の角度から見るようになっている**んだ。

「お店のことも、人のことも、未来のことも。
 全部ちゃんと考えてるんですよね。
 だから皆、安心してついていける」

「うん……」

「でも、澪さんって……**“自分が頼る側”になるの**、下手じゃないですか?」

その言葉に、私は思わず笑ってしまった。

「あー……それ、めちゃくちゃ分かる」

「ですよね?」

遥ちゃんは、また少しだけ声を落とす。

「だから私、最近ちょっと思うんです。
 澪さんにも、“この人になら少し任せてもいいかな”って思える人が、必要なんじゃないかなって」

凪咲は、グラスを置いた。

——それは、私がつい先日、別の店で感じたのと、まったく同じことだった。

「遥ちゃん」

「はい?」

「あなた、ちゃんと見てるね」

「副店長ですから」

二度目の「副店長ですから」だった。

でも、二度目の方が、少しだけ誇らしげだった。

============================================

——その時。

(チリンチリーン)

店の扉が開いた。

「あら。賑やかね」

「あ、澪さん!」

噂をすれば、ではなかった。

そういえば、遥ちゃんが**「もうすぐ戻ると思いますよ」**と言ったのは、香澄のことだったはずだ。
でも、ドアを開けて入ってきたのは、澪さんだった。

——あ。

そういえば、月初の経理の確認で、月に一度は澪さんが店に来る日がある。
たまたま、今日がその日だったのか。

それとも、何か別の用事で……?

「あれ? 澪さん、今日って何かありましたっけ?」

「ちょうど近くで打ち合わせがあってね。終わりが早かったから、寄ってみたの」

「あ、なるほど!」

「邪魔だったかしら?」

「とんでもないです!」

凪咲は、慌てて答えた。

そして、思った。

——以前なら、この距離感だけで緊張していたのに。
 今は、少し違う。

もちろん、まだ圧倒される。
でも、**“怖い”とは思わなくなっていた**。

「凪咲さんの隣、いい?」

「もちろんです」

澪さんは、コートを丁寧に畳んで椅子の背にかけてから、自然な仕草で隣に腰を下ろした。

============================================

澪さんはマンハッタンを見て、ふっと笑った。

「良いもの選んでもらったわね」

「遥ちゃん作です」

「なるほど。じゃあ納得」

遥ちゃんは、得意げに胸を張った。

そして、すぐに澪さんに向き直る。

「澪さん、今日は何になさいますか?」

「うーん……同じものを。気になっちゃったから」

「かしこまりました」

遥ちゃんは、ミキシンググラスを取り出して動き始める。

澪さんは、しばらく静かに店内を見回してから、ぽつりと言った。

「ところで、入ってきた時——
 何の話してたの?」

反射的に遥ちゃんと、顔を見合わせた。

——聞かれてた?

「……どこから?」

「『あなた、ちゃんと見てるね』のところから」

「……それ、わりと最後ですよ」

「最後だけでも、内容は大体察しがついたわよ」

澪さんは、少しだけ面白がるような笑みを浮かべた。

「**“一人で全部背負い過ぎる”**って、私のことでしょう?」

遥ちゃんが、ぴっと姿勢を正した。

「いえあの、それは決して悪い意味では——」

「分かってる」

澪さんは、軽く手を振った。

「でも、ちょっと驚いたわ。
 二人とも、よく見てるのね」

============================================

私は、グラスを軽く揺らした。

少しだけ、迷う。
でも、もし今日言わなかったら、また機会を失う気がした。

「澪さん」

「ん?」

「澪さんって、なんでそんなに……人を変えられるんだろう、って」

澪さんは、目を丸くした。

それから、少し困ったように笑う。

「変えてるつもりは、ないんだけどね」

「でも、皆変わってるじゃないですか」

——有紗先輩。
 遥ちゃん。
 香澄も、たぶん。

——そして、私も。

澪さんは、しばらく黙っていた。

その沈黙は、**言葉を探している沈黙**だった。

遥ちゃんがマンハッタンを差し出して、それを受け取ってから、澪さんはようやく口を開いた。

「……たぶんね」

「はい」

「私は、“**期待してる**”のかもしれない」

私は、瞬きをした。

「相手が、自分で思ってるより、出来る人なんじゃないかって。
 それを、勝手に信じてる」

「……」

「だから、“こうしなさい”じゃなくて、
 “**あなたなら、どうしたい?**”って聞きたくなるの」

その言葉を聞いた瞬間、
自分の中で、何かが繋がった。

——ああ。

この人は。

人を**管理してる**んじゃない。

人の可能性を、**信じ続けてる**んだ。

だから皆、前を向ける。
だから皆、**「もっと出来るかもしれない」**って、思ってしまう。

グラスを持ち上げて、ゆっくり飲んだ。
マンハッタンの強さが、今は、ちょうどよく身体に沁みた。

============================================

澪さんは、そこで、少しだけ視線を逸らした。

「……でも、最近は」

「?」

「凪咲さんにも、**ちょっと期待し始めてる**のよね」

「……え?」

思考が、止まった。

遥ちゃんが、目を丸くして口を開きかける。

「……いえ、何でも」

賢明に、遥ちゃんは何も言わなかった。

「あ、いえ」

澪さんは、グラスを軽く揺らしながら言葉を続ける。

「変な意味じゃないのよ。
 ……でも、誤解されそうな言い方だったわね」

それは、いつもの澪さんが言いそうにない、自分への小さな突っ込みだった。

——あ。

ふと、気づく。

この人、ちょっと**動揺してる**。

普段、こんなに言葉を慎重に選ぶ人が、今、少しだけ、選び直している。

「……あの夜、別のお店で」

澪さんは、グラスを見つめながら、続けた。

「凪咲さんに、『アンバサダーみたい』って言われて、ずっと考えてたの」

息を呑んだ。

「私はずっと、人と人の間に立つことを、自分の役割だと思ってきた。
 でも、あなたにそう言われて——
 もしかしたら、私も、**誰かと並んで歩く側**に、回ってもいいのかもしれない、って」

「……」

「だから、ちょっと、期待してる。
 あなたが、いつかその隣に立ってくれたら、面白いんじゃないかって」

しばらく、何も言えなかった。

カウンターの内側で、遥ちゃんが、グラスを磨きながら、聞いていないふりをしている。
でも、その手の動きが、いつもより少しだけ遅かった。

============================================

「……澪さん、それ」

凪咲は、ようやく口を開いた。

「結構、ずるくないですか」

「ずるい?」

「だって——
 そう言われたら、私、頑張らないわけにいかないじゃないですか」

澪さんは、ふっと笑った。

「ごめんなさい」

「謝らないでくださいよ」

「……ふふ」

澪さんが、珍しく、声を上げて笑った。

その笑顔を見て、ふと気付く。

——ああ。

この人、ちゃんと**“人と並んで歩きたい”**とも、思ってるんだ。

ただ、それが出来る相手が、少なすぎただけで。

============================================

「……期待、ですか」

凪咲は、もう一度、グラスを持ち上げる。

「応えられるかは、分かりませんよ?」

「ええ」

澪さんも、静かに頷いた。

「でも、あなたなら、**面白いところまで行ける**気はしてる」

その言葉に、不思議とプレッシャーより先に、嬉しさが来た。

——ああ。

認められたいって、こういうことか。

凪咲は、少しだけ笑う。

「じゃあ、頑張らないとですね」

「無理はしないでね?」

「それ、澪さんが言います?」

「……耳が痛いわね」

============================================
(チリンチリーン)
「ただいま戻りました」

両手に紙袋を抱えた香澄が、入ってきた。

「あら、香澄さん。お疲れさま」

「澪さん、来てらしたんですね。お疲れさまです」

香澄は澪さんに軽く一礼してから、紙袋をカウンターの裏に運んでいく。

「何の話してたの、三人で。楽しそうね」
手をひらひらさせる。

「ほんと、普通の世間話よ」

「凪咲、ほんと?」

「ほんと、ほんと」

「……あなたが『ほんと』を二回言うときは、だいたい嘘なのよね」

凪咲は、思わず吹き出した。

「鋭すぎるって、香澄」

「長い付き合いだから」

香澄は、買ってきた食材をひとつずつ確認しながら、淡々と言った。

——その、いつもと変わらない横顔を見ながら、少しだけ思う。

ここのところ、たくさんの人が変わった。
有紗先輩は変わる側に回った。
遥ちゃんは変わらないことを自分の意思で選んだ。
私は、自分が「置いていかれるのが怖い」と認めた。
澪さんは、人と並んで歩く側に、一歩出ようとしている。

——じゃあ。

ちらりと、香澄を見る。

香澄は、何も変わっていないように見える。
いつもと同じ手つきで、いつもと同じ顔で、店に立っている。

でも——

なんだろう。
最近、香澄の中に、**何か小さな揺らぎ**があるような気がする。

それが何なのか、私にはまだ分からない。
でも、いつか、香澄が話してくれる日が来るなら、その時、ちゃんと聞ける自分でありたい。

そう、思った。

============================================

「香澄さん、何飲む?」

澪が声をかけると、香澄は買い出しの紙袋を片付けながら答えた。

「ありがとうございます。今日は仕事中ですので、後ほど」

「真面目ねえ」

「真面目にやらないと、副店長に怒られますので」

「えっ、私、香澄先輩に怒ったことないですよ!?」

「無言の圧をかけてくる」

「えええ、それは無理な相談ですよぅ!」
三人の笑い声が、静かなバーに溶けていく。

——でも、その笑い声の中に、香澄の声が**一拍だけ遅れて**混ざった。

それが何を意味するのか、私は、まだ分からなかった。

============================================

カウンターの上では、
マンハッタンの琥珀色が、ゆっくり揺れていた。

まるで——
少しずつ距離が変わっていく心みたいに。

外の夜は、まだ雨上がりの匂いを残している。

凪咲は、グラスを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。

ライウイスキーの骨格。
ベルモットの甘さ。
ビターズの苦味。

——強いのに、綺麗にまとまっている。

このまとまりがずっと続けばいいのに…
凪咲はそんな事を考えながら、もう一口マンハッタンを飲んだ。

---

最近、会社で使っていることもあってclaude codeを使う機会が増えています。

そこで試しに今まで書いたお話を、claudeに読み込ませると、好きな感じにアップデートしてくれたんですね。
ということで本作は、claudeで書いたものを初投稿させてもらいます。

前作で凪咲さんと話した澪さん。
その「期待」を、とても鮮やかに描いてもらえてclaude流石だなあと思いました。
ちなみにその前作はこちら。
https://www.chichi-pui.com/posts/47d48011-8c18-4931-8a2c-11e9b82447d0/

ただ、最初から書いてもらったわけではなく。

まずラフに自分で書く→chat GPTに書いてもらう→claudeに書いてもらう→最終手直し

という手順を踏んでいます。
…ええ、ここはイラストの投稿サイトですよね(;・∀・)

ちなみにマンハッタンですね。
とても有名なカクテルで、名前を聞いたことある方も多いのでは。

ライウイスキー、ベルモットにアンゴスチュラビターズを垂らし、ステアして作る実はシンプルなカクテルです。
一応の比率は決められてるものの、それも自分好みでok。材料を変えた際のバリエーションも多いカクテルですね。

バーならほぼどこでもあるかと思いますので、是非お試しを!

呪文

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