逃げじゃない
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ChatGPT
「——ありがとうございました。またお待ちしております」
パタン。
お客様を見送り、私はバーのドアを閉める。
今日は遥が休みで、私一人の営業。
時刻は二十二時。バータイムではあるけれど、休前日ではない平日ということもあって、たまたま客席が空になった。
本来なら、この時間を使って仕込みや作業を進めるべきだ。
でも私は、カウンターを軽く拭きながら、これまでのことを、ふと振り返っていた。
============================================
凪咲と話したあの夜から、気づけば三日が経っていた。
あの日、凪咲は、私の吐き出した気持ちを、全部受け止めてくれた。
答えは、私の中で、まだ出ていない。
でも、「出ていない」と客観視できるようになった。
そのおかげだと思う。
遥とまた、普通に話せるようになった——と思う。
あの水割り以来、私はどこかで、遥に対して一種の**“崇拝”**のような感情を持っていた気がする。
もう、遥に私が教えることは無いんじゃないか。
もう、遥の方が——全てにおいて、私より上なんじゃないか。
けど、そうじゃなかった。
昨日の営業中、遥にも、まだ指摘すべき点があった。
忙しくなってきた時の優先順位のつけ方。
グラスの置き方、磨き方の細部。
我ながら細かいかな、と思った。
でも遥は、「はい!」と、元気よく、変わらずに聞いてくれた。
——改めて振り返ってみると。
指摘されて、あんな風にまっすぐ受け取る姿勢が、今の私には足りなかったのかもしれない。
============================================
そして、もうひとつ。
あの夜から、私は、待っていた。
扉のベルが鳴るたびに、ほんの一瞬だけ、顔を上げてしまう。
入ってくるのは、いつもの常連さんだったり、初めてのお客様だったりする。
そのたびに、私はいつも通りの店長の顔で、「いらっしゃいませ」と迎える。
それでいい。
待つ、と決めたのは私だ。
——来てくれるとしたら、あの人の流儀で、ふらっと。
そう分かっていたから、私は、ただ日々の営業を丁寧にやりながら、待っていた。
(チリンチリーン)
そんなことをぼんやり考えていると、入り口のドアが開いた。
——いけない。
慌てて、私は仕事用の顔に作り替える。
「いらっしゃいま……せ……」
私は思わず、息を呑んだ。
——本当に、他にお客様がいなくて良かったと思う。
今の私の顔は、たぶん、店長の顔をしていない。
「こんばんは、香澄」
私が、一番会いたいと思っていた人。
麻美先輩だった。
============================================
「……えっと、座ってもいい?」
フリーズしていた頭が、その言葉で再起動する。
「し……失礼しました。では、こちらの席へお願いします」
「うん、ありがとう」
私は、ほぼ無意識に、カウンターの真ん中の席へ麻美先輩を案内していた。
——真ん中の席。
一年前のあの夜、麻美先輩が座った席。
そして、いつか澪さんが、悩みを抱えて座った席。
そこへ案内してしまったのは、話を聞いてもらいたい心の現れだと、私自身が一番分かっていた。
「それでは、ご注文はいかがいたしましょうか」
「XYZをお願い」
ほぼ間髪入れずの注文に、再び息を呑む。
それは、私が幾度も作ってきたカクテルであり——
「……畏まりました。少々お待ちくださいませ」
——麻美先輩が、私に初めて教えてくれたカクテルだった。
============================================
バックバーを振り返りながら、材料を思い浮かべる。
ホワイトラム。
コアントロー。
レモンジュース。
たった三つの、シンプルな材料。
それを思い出すだけのことに、緊張しきっている自分を自覚する。
バックバーを眺めたまま、一瞬、頭が白くなった。
逃げ出したい、という気持ちが、足元から上がってくる。
——いや。
違う。
それでは、意味が無い。
揺らぐ心を、私は追い出す。
そして、麻美先輩が来てくれた意味に、目を向ける。
あれほど会いたいと思っていた、麻美先輩。
ご結婚前の、決して暇ではないはずの時間を割いて、来てくれた。
その心意気に応えるため、私は日々、腕を磨いてきたはずだ。
——ひとつ、深呼吸。
ようやくクリアになってきた頭で、私は、XYZを作り始める。
ラム、コアントロー、レモンジュース。
氷を入れ、シェイカーを構える。
——シャッ、シャッ、シャッ。
音と、シェイカーの中で液体が混ざっていく感覚を頼りに、一杯を組み立てていく。
構えるまでは、指先が少し強張っていた。
でも、振り始めたら、身体が覚えているリズムが、勝手に出てきた。
——大丈夫。
この一杯は、もう、何百回も作ってきた。
冷気をまとったグラスへ、淡く白濁した、レモン色の液体を注ぎ込む。
「お待たせいたしました。XYZです」
麻美先輩は、ひとつ頷いて、グラスを受け取る。
じっくりと香りを確かめてから、一口、含んだ。
「……うん。また、腕が上がってるわね」
麻美先輩からのその言葉に、ほうっと、息をつく。
「……ありがとうございます」
ようやく、緊張がほどけてきた。
============================================
そこからは、少し、他愛もない話。
私の仕事のこと。
麻美先輩の仕事のこと。
ご結婚までの準備のこと。
麻美先輩の結婚式は、春らしい。
式場のこと、ドレスのこと、両家の顔合わせで緊張したこと。
話す麻美先輩は本当に楽しそうで、私も自然と笑えた。
——ああ、この人は今、幸せなんだ。
それが分かるだけで、胸のどこかが、少し軽くなる。
グラスが半分ほど空いた頃、ふと、会話が途切れた。
氷が、からん、と小さく鳴る。
「……ねえ、香澄」
「はい」
「何か、あったでしょう」
静かな声だった。
責めるでもなく、探るでもない。
ただ、扉を開けて待っているような声。
——四人目。
もう、驚かなかった。
有紗さんも、澪さんも、凪咲も、皆、同じように切り込んできた。
そして私は、たぶん、それを待っていた。
「……はい。聞いていただけますか」
「もちろん。そのために来たんだから」
——そのために。
その言葉の意味を、この時の私は、まだ半分しか分かっていなかった。
============================================
私は、話した。
四回目ともなると、我ながら、話の道筋が整理されている。
遥のこと。
あの夜の水割りのこと。
「教えたくない」と思ってしまったこと。
有紗さんに「寂しい」という名前をつけてもらったこと。
澪さんに「皆通る道」だと言われたこと。
凪咲の前で、泣いてしまったこと。
そして——「遥と一緒にいて、本当にいいのか分からない」と、思ってしまっていること。
麻美先輩は、一度も口を挟まなかった。
グラスを両手で軽く包んだまま、ただ静かに、聞いてくれていた。
私が話し終えると、麻美先輩は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そっか」
そして、ぽつりと言った。
「あなたも、そこに来たのね」
「……え?」
麻美先輩は、グラスを、静かにカウンターに置いた。
「香澄。ひとつ、告白してもいい?」
「……はい」
「私ね。あなたに——教えたくないって、思ったことがある」
============================================
一瞬、店の音が全部、消えた気がした。
「……え……」
「あなたが入って、二年目くらいだったかな。
教えたことを、あなたはすぐに吸収した。
三年目には——」
麻美先輩は、目の前のグラスを、指先で軽く示した。
「このXYZ。私の、一番の得意カクテルだったの」
「……」
「最初にあなたに教えたのも、だからよ。
一番自信のある一杯から、教えたかった」
「……はい」
「でもね。三年目のある日、あなたの作ったXYZを飲んで——私のより、美味しい、って思った」
麻美先輩は、ふっと笑った。
「その日から、教える手が、少しずつ重くなった。
新しい技術を覚えても、あなたに見せるのが怖くなった。
見せれば、あなたはすぐ、私より上手くやるから」
「……」
「表面上は、変わらず接してたつもり。優しい先輩のままで。
……気づいてなかったでしょう?」
「……全然、気づいてませんでした」
「でしょうね。それだけは、頑張ったから」
麻美先輩は、少しだけ、自嘲気味に笑った。
「そして私は、その気持ちと向き合うのが怖くて——辞めた」
「……」
「結婚も、転職も、キャリアの考えも、全部本当よ。嘘じゃない。
でもね。一番奥に沈んでたのは、それだった」
============================================
私は、何も言えなかった。
——あの夜。
一年前、この同じカウンターで、麻美先輩は「私、完全に一人相撲だったわね」と笑った。
あの柔らかい笑いの奥に、こんなものが畳まれていたなんて。
「……どうして、今、それを話してくださったんですか」
「あなたが今、当時の私と同じ場所に立ってるから」
麻美先輩は、まっすぐ私を見た。
「でもね、香澄。あなたと私では、決定的に違うところが、一つある」
「……」
「私は、誰にも話さなかった。
悔しいとも、怖いとも、誰にも言わないで、綺麗な先輩の顔のまま、静かに店を去った」
グラスの中で、溶けかけた氷が、小さく崩れた。
「あなたは、違う。
有紗さんに話して、澪さんに話して、凪咲さんの前で泣いて。
みっともなくても、誰かに頼って、答えを探してる」
麻美先輩の声が、ほんの少しだけ、熱を帯びた。
「それはね、香澄。——逃げてない、ってことよ」
============================================
——逃げてない。
その言葉が、胸の真ん中に、まっすぐ落ちてきた。
「あの夜——あなた、私に言ってくれたでしょう。
『結婚も、転職も、逃げじゃありません』って」
「……はい」
「あれね、本当に救われたの。今でも、時々思い出す」
麻美先輩は、グラスに目を落とした。
「でも、正直に言うとね。あの言葉に甘えたまま、言えてなかったことがある」
「……」
「私は、選択からは逃げなかった。
でも、気持ちからは、逃げたの。
この『教えたくない』っていう、みっともない気持ちと、最後まで向き合わなかった」
顔を上げる。
「あなたは、どっちからも逃げてない。だから——」
麻美先輩は、静かに、でもはっきりと言った。
「大丈夫。あなたは、私みたいには、ならない」
============================================
私は、俯いた。
手の中の布巾を、ぎゅっと握る。
泣きそうだった。
でも、今夜は、堪えた。
凪咲の前で流した涙とは、たぶん、違う種類のものが込み上げていたから。
——そして、気づいた。
麻美先輩が「教えたくない」と思っていたと知って——
私の中の、麻美先輩への尊敬は、少しも減っていない。
むしろ。
その気持ちを抱えながら、最後まで優しい先輩でいてくれたことを知って——増えた。
「……麻美先輩。私、ずっと怖かったんです」
「うん」
「この気持ちを遥に知られたら、軽蔑されるって。
最低な先輩だって、思われるって」
「うん」
「でも……今、先輩の話を聞いて」
私は、顔を上げた。
「軽蔑なんて、全然、できませんでした。……できるわけ、なかった」
麻美先輩は、ふふ、と笑った。
「でしょう?」
「……はい」
「感情はね、持つこと自体は、罪じゃないのよ。
向き合うか、逃げるか。分かれ道は、そこだけ」
============================================
しばらく、静かな時間が流れた。
BGMのジャズが、いつの間にか、ピアノソロの曲に変わっている。
私は、ふと、口を開いた。
「……あの、麻美先輩。ひとつ、伺ってもいいですか」
「なあに」
「どうして、今夜、来てくださったんですか」
麻美先輩は、少しだけ、間を置いた。
グラスの底に残った一口を、ゆっくり飲み干してから、言った。
「……先週ね。遥さんが、私に会いに来たの」
——あ。
カップ。
手帳。
スタンプカード。
グレンリベット。
集めてきた欠片が、最後の一枚で、絵になった。
「この間お店に寄った時、帰り際に呼び止められてね。『今度、ご相談したいことがあって』って。
律儀に連絡くれて、先週、二人でお茶したの」
「……遥が、何を」
言いかけて、止まった。
麻美先輩は、ゆっくり首を振った。
「ごめんね。何を話したかは——言わない」
「……」
「あの子が、自分の口で、あなたに話すべきことだから」
その線の引き方が、麻美先輩らしくて、私は、頷くしかなかった。
「でも、ひとつだけ。これだけは、言わせて」
麻美先輩は、私の目を見た。
「あの子は、あなたのことを、本当に大切に思ってる。
それだけは、間違いない。元バーテンダーの名にかけて、保証する」
「……はい」
胸の中で、最後の結び目の位置が——はっきり、見えた気がした。
まだ、ほどけてはいない。
でも、どこを、誰と、ほどけばいいのか。
それだけは、もう、分かった。
——遥と、話そう。
今度は、私から。
============================================
「さて」
麻美先輩が、ふっと空気を変えるように、背筋を伸ばした。
「最後に、もう一杯だけ、いい?」
「はい。何にいたしましょう」
「あなたが選んで」
「……え?」
「今のあなたが、今の私に出したい一杯。それをちょうだい」
——今の私が、今の麻美先輩に。
私は、バックバーを振り返った。
視線が、ジンの段で止まる。
デュボネ。チェリーブランデー。オレンジ。
——そうだ。
今夜は、私が慰めてもらうだけの夜じゃない。
春に式を控えた、大切な先輩の——門出を祝う夜でも、あるはずだ。
私は、迷いなくボトルを取った。
ジンを注ぎ、デュボネを重ね、チェリーブランデーを少し。
オレンジジュースを加えて、氷とともにシェイク。
——シャッ、シャッ、シャッ。
さっきのXYZの時とは、違う。
手が、震えていない。
カクテルグラスに注いだ液体は、夕焼けのような、温かい色をしていた。
「お待たせしました。——ウェディングベルズです」
麻美先輩は、グラスを見て、目を丸くした。
それから、口元を、そっと手で覆った。
「……もう」
「ご結婚、おめでとうございます。
……あの夜、ちゃんと言えていなかった気がして」
「言ってくれたわよ」
「言葉では。でも、一杯では、まだでした」
麻美先輩は、グラスを手に取り、ひと口飲んで——
少しだけ、目元を潤ませて、笑った。
「……泣かせないでよ。慰めに来たのは、私の方なのに」
「私たち、いつも、そうじゃないですか」
「……そうね」
麻美先輩は、笑いながら、ゆっくりと味わった。
「美味しい。……本当に、いいバーテンダーになったわね、香澄」
「先輩の、おかげです」
「ふふ。今夜だけは、素直に受け取っておくわ」
============================================
(カランカラン♪)
麻美先輩を、扉の外まで見送る。
夜風は冷たいのに、先輩の頬は、少しだけ赤かった。
「じゃあね、香澄。……ああ、そうだ。最後に、ひとつだけ注文」
「はい?」
麻美先輩は、悪戯っぽく笑った。
「遥さんに——負けないでね」
「……」
「あなたは、私の、自慢の後輩なんだから」
それは、あの優しい麻美先輩が、初めて私に見せた——
勝負師の顔だった。
たぶん、現役の頃、一度も見せてくれなかった顔。
「……はい」
私は、深く、頭を下げた。
「必ず」
麻美先輩は、満足そうに頷いて、夜の街へ歩いていった。
その背中は、一年前に見送った時よりも、ずっと、軽やかだった。
============================================
店に戻り、私は、二つのグラスを洗う。
ウェディングベルズのグラスと——XYZのグラス。
XYZ。
アルファベットの、最後の三文字。
「これ以上はない」という意味を込められた、終わりの名前を持つカクテル。
——麻美先輩は、その一杯から、私を始めてくれた。
終わりの名前から、始まったものがある。
だったら。
先輩と後輩、という関係がひとつ終わっても——
そこから、始まるものが、きっとある。
私は、グラスを丁寧に拭き上げ、棚に戻した。
明日、遥が出勤してくる。
——話そう。
全部、話そう。
みっともない気持ちも、全部。
麻美先輩が、私に見せてくれたみたいに。
店の灯りを落とす。
暗くなったカウンターの上で、磨き上げたグラスだけが、街灯の光を受けて、静かに光っていた。
----------
香澄さん主役のお話も、これで第五話。
過去のお話は、タグ「ほどく_A.Libra」より辿れます。
今回、麻美さんを本当に久しぶりに描きました。
このシリーズ、ここで麻美さんを出したいとは決めてましたが、私自身あまり麻美さんのキャラって固まってなかったんですよね。
どうしようどうしよう、と思ってるうちに中々書けず。
そうするとちょうどclaudeの話題モデルfableが、もう一度使えるようになりました。
簡単なプロットだけ与えて、後はお任せ!
でできたのがこちらです。
本当にビックリしました。私の想定する麻美さん、香澄さんがそのまま出てきました。
これ、ほんと誰でも小説家になれてしまうんじゃ…という恐怖がありましたね。
ただ、良い話だと思うのでこのまま投稿することにしました。
さて、いよいよこのシリーズも次でラスト。
季節感は逆ですが、近々アップさせてもらいます!
パタン。
お客様を見送り、私はバーのドアを閉める。
今日は遥が休みで、私一人の営業。
時刻は二十二時。バータイムではあるけれど、休前日ではない平日ということもあって、たまたま客席が空になった。
本来なら、この時間を使って仕込みや作業を進めるべきだ。
でも私は、カウンターを軽く拭きながら、これまでのことを、ふと振り返っていた。
============================================
凪咲と話したあの夜から、気づけば三日が経っていた。
あの日、凪咲は、私の吐き出した気持ちを、全部受け止めてくれた。
答えは、私の中で、まだ出ていない。
でも、「出ていない」と客観視できるようになった。
そのおかげだと思う。
遥とまた、普通に話せるようになった——と思う。
あの水割り以来、私はどこかで、遥に対して一種の**“崇拝”**のような感情を持っていた気がする。
もう、遥に私が教えることは無いんじゃないか。
もう、遥の方が——全てにおいて、私より上なんじゃないか。
けど、そうじゃなかった。
昨日の営業中、遥にも、まだ指摘すべき点があった。
忙しくなってきた時の優先順位のつけ方。
グラスの置き方、磨き方の細部。
我ながら細かいかな、と思った。
でも遥は、「はい!」と、元気よく、変わらずに聞いてくれた。
——改めて振り返ってみると。
指摘されて、あんな風にまっすぐ受け取る姿勢が、今の私には足りなかったのかもしれない。
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そして、もうひとつ。
あの夜から、私は、待っていた。
扉のベルが鳴るたびに、ほんの一瞬だけ、顔を上げてしまう。
入ってくるのは、いつもの常連さんだったり、初めてのお客様だったりする。
そのたびに、私はいつも通りの店長の顔で、「いらっしゃいませ」と迎える。
それでいい。
待つ、と決めたのは私だ。
——来てくれるとしたら、あの人の流儀で、ふらっと。
そう分かっていたから、私は、ただ日々の営業を丁寧にやりながら、待っていた。
(チリンチリーン)
そんなことをぼんやり考えていると、入り口のドアが開いた。
——いけない。
慌てて、私は仕事用の顔に作り替える。
「いらっしゃいま……せ……」
私は思わず、息を呑んだ。
——本当に、他にお客様がいなくて良かったと思う。
今の私の顔は、たぶん、店長の顔をしていない。
「こんばんは、香澄」
私が、一番会いたいと思っていた人。
麻美先輩だった。
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「……えっと、座ってもいい?」
フリーズしていた頭が、その言葉で再起動する。
「し……失礼しました。では、こちらの席へお願いします」
「うん、ありがとう」
私は、ほぼ無意識に、カウンターの真ん中の席へ麻美先輩を案内していた。
——真ん中の席。
一年前のあの夜、麻美先輩が座った席。
そして、いつか澪さんが、悩みを抱えて座った席。
そこへ案内してしまったのは、話を聞いてもらいたい心の現れだと、私自身が一番分かっていた。
「それでは、ご注文はいかがいたしましょうか」
「XYZをお願い」
ほぼ間髪入れずの注文に、再び息を呑む。
それは、私が幾度も作ってきたカクテルであり——
「……畏まりました。少々お待ちくださいませ」
——麻美先輩が、私に初めて教えてくれたカクテルだった。
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バックバーを振り返りながら、材料を思い浮かべる。
ホワイトラム。
コアントロー。
レモンジュース。
たった三つの、シンプルな材料。
それを思い出すだけのことに、緊張しきっている自分を自覚する。
バックバーを眺めたまま、一瞬、頭が白くなった。
逃げ出したい、という気持ちが、足元から上がってくる。
——いや。
違う。
それでは、意味が無い。
揺らぐ心を、私は追い出す。
そして、麻美先輩が来てくれた意味に、目を向ける。
あれほど会いたいと思っていた、麻美先輩。
ご結婚前の、決して暇ではないはずの時間を割いて、来てくれた。
その心意気に応えるため、私は日々、腕を磨いてきたはずだ。
——ひとつ、深呼吸。
ようやくクリアになってきた頭で、私は、XYZを作り始める。
ラム、コアントロー、レモンジュース。
氷を入れ、シェイカーを構える。
——シャッ、シャッ、シャッ。
音と、シェイカーの中で液体が混ざっていく感覚を頼りに、一杯を組み立てていく。
構えるまでは、指先が少し強張っていた。
でも、振り始めたら、身体が覚えているリズムが、勝手に出てきた。
——大丈夫。
この一杯は、もう、何百回も作ってきた。
冷気をまとったグラスへ、淡く白濁した、レモン色の液体を注ぎ込む。
「お待たせいたしました。XYZです」
麻美先輩は、ひとつ頷いて、グラスを受け取る。
じっくりと香りを確かめてから、一口、含んだ。
「……うん。また、腕が上がってるわね」
麻美先輩からのその言葉に、ほうっと、息をつく。
「……ありがとうございます」
ようやく、緊張がほどけてきた。
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そこからは、少し、他愛もない話。
私の仕事のこと。
麻美先輩の仕事のこと。
ご結婚までの準備のこと。
麻美先輩の結婚式は、春らしい。
式場のこと、ドレスのこと、両家の顔合わせで緊張したこと。
話す麻美先輩は本当に楽しそうで、私も自然と笑えた。
——ああ、この人は今、幸せなんだ。
それが分かるだけで、胸のどこかが、少し軽くなる。
グラスが半分ほど空いた頃、ふと、会話が途切れた。
氷が、からん、と小さく鳴る。
「……ねえ、香澄」
「はい」
「何か、あったでしょう」
静かな声だった。
責めるでもなく、探るでもない。
ただ、扉を開けて待っているような声。
——四人目。
もう、驚かなかった。
有紗さんも、澪さんも、凪咲も、皆、同じように切り込んできた。
そして私は、たぶん、それを待っていた。
「……はい。聞いていただけますか」
「もちろん。そのために来たんだから」
——そのために。
その言葉の意味を、この時の私は、まだ半分しか分かっていなかった。
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私は、話した。
四回目ともなると、我ながら、話の道筋が整理されている。
遥のこと。
あの夜の水割りのこと。
「教えたくない」と思ってしまったこと。
有紗さんに「寂しい」という名前をつけてもらったこと。
澪さんに「皆通る道」だと言われたこと。
凪咲の前で、泣いてしまったこと。
そして——「遥と一緒にいて、本当にいいのか分からない」と、思ってしまっていること。
麻美先輩は、一度も口を挟まなかった。
グラスを両手で軽く包んだまま、ただ静かに、聞いてくれていた。
私が話し終えると、麻美先輩は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そっか」
そして、ぽつりと言った。
「あなたも、そこに来たのね」
「……え?」
麻美先輩は、グラスを、静かにカウンターに置いた。
「香澄。ひとつ、告白してもいい?」
「……はい」
「私ね。あなたに——教えたくないって、思ったことがある」
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一瞬、店の音が全部、消えた気がした。
「……え……」
「あなたが入って、二年目くらいだったかな。
教えたことを、あなたはすぐに吸収した。
三年目には——」
麻美先輩は、目の前のグラスを、指先で軽く示した。
「このXYZ。私の、一番の得意カクテルだったの」
「……」
「最初にあなたに教えたのも、だからよ。
一番自信のある一杯から、教えたかった」
「……はい」
「でもね。三年目のある日、あなたの作ったXYZを飲んで——私のより、美味しい、って思った」
麻美先輩は、ふっと笑った。
「その日から、教える手が、少しずつ重くなった。
新しい技術を覚えても、あなたに見せるのが怖くなった。
見せれば、あなたはすぐ、私より上手くやるから」
「……」
「表面上は、変わらず接してたつもり。優しい先輩のままで。
……気づいてなかったでしょう?」
「……全然、気づいてませんでした」
「でしょうね。それだけは、頑張ったから」
麻美先輩は、少しだけ、自嘲気味に笑った。
「そして私は、その気持ちと向き合うのが怖くて——辞めた」
「……」
「結婚も、転職も、キャリアの考えも、全部本当よ。嘘じゃない。
でもね。一番奥に沈んでたのは、それだった」
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私は、何も言えなかった。
——あの夜。
一年前、この同じカウンターで、麻美先輩は「私、完全に一人相撲だったわね」と笑った。
あの柔らかい笑いの奥に、こんなものが畳まれていたなんて。
「……どうして、今、それを話してくださったんですか」
「あなたが今、当時の私と同じ場所に立ってるから」
麻美先輩は、まっすぐ私を見た。
「でもね、香澄。あなたと私では、決定的に違うところが、一つある」
「……」
「私は、誰にも話さなかった。
悔しいとも、怖いとも、誰にも言わないで、綺麗な先輩の顔のまま、静かに店を去った」
グラスの中で、溶けかけた氷が、小さく崩れた。
「あなたは、違う。
有紗さんに話して、澪さんに話して、凪咲さんの前で泣いて。
みっともなくても、誰かに頼って、答えを探してる」
麻美先輩の声が、ほんの少しだけ、熱を帯びた。
「それはね、香澄。——逃げてない、ってことよ」
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——逃げてない。
その言葉が、胸の真ん中に、まっすぐ落ちてきた。
「あの夜——あなた、私に言ってくれたでしょう。
『結婚も、転職も、逃げじゃありません』って」
「……はい」
「あれね、本当に救われたの。今でも、時々思い出す」
麻美先輩は、グラスに目を落とした。
「でも、正直に言うとね。あの言葉に甘えたまま、言えてなかったことがある」
「……」
「私は、選択からは逃げなかった。
でも、気持ちからは、逃げたの。
この『教えたくない』っていう、みっともない気持ちと、最後まで向き合わなかった」
顔を上げる。
「あなたは、どっちからも逃げてない。だから——」
麻美先輩は、静かに、でもはっきりと言った。
「大丈夫。あなたは、私みたいには、ならない」
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私は、俯いた。
手の中の布巾を、ぎゅっと握る。
泣きそうだった。
でも、今夜は、堪えた。
凪咲の前で流した涙とは、たぶん、違う種類のものが込み上げていたから。
——そして、気づいた。
麻美先輩が「教えたくない」と思っていたと知って——
私の中の、麻美先輩への尊敬は、少しも減っていない。
むしろ。
その気持ちを抱えながら、最後まで優しい先輩でいてくれたことを知って——増えた。
「……麻美先輩。私、ずっと怖かったんです」
「うん」
「この気持ちを遥に知られたら、軽蔑されるって。
最低な先輩だって、思われるって」
「うん」
「でも……今、先輩の話を聞いて」
私は、顔を上げた。
「軽蔑なんて、全然、できませんでした。……できるわけ、なかった」
麻美先輩は、ふふ、と笑った。
「でしょう?」
「……はい」
「感情はね、持つこと自体は、罪じゃないのよ。
向き合うか、逃げるか。分かれ道は、そこだけ」
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しばらく、静かな時間が流れた。
BGMのジャズが、いつの間にか、ピアノソロの曲に変わっている。
私は、ふと、口を開いた。
「……あの、麻美先輩。ひとつ、伺ってもいいですか」
「なあに」
「どうして、今夜、来てくださったんですか」
麻美先輩は、少しだけ、間を置いた。
グラスの底に残った一口を、ゆっくり飲み干してから、言った。
「……先週ね。遥さんが、私に会いに来たの」
——あ。
カップ。
手帳。
スタンプカード。
グレンリベット。
集めてきた欠片が、最後の一枚で、絵になった。
「この間お店に寄った時、帰り際に呼び止められてね。『今度、ご相談したいことがあって』って。
律儀に連絡くれて、先週、二人でお茶したの」
「……遥が、何を」
言いかけて、止まった。
麻美先輩は、ゆっくり首を振った。
「ごめんね。何を話したかは——言わない」
「……」
「あの子が、自分の口で、あなたに話すべきことだから」
その線の引き方が、麻美先輩らしくて、私は、頷くしかなかった。
「でも、ひとつだけ。これだけは、言わせて」
麻美先輩は、私の目を見た。
「あの子は、あなたのことを、本当に大切に思ってる。
それだけは、間違いない。元バーテンダーの名にかけて、保証する」
「……はい」
胸の中で、最後の結び目の位置が——はっきり、見えた気がした。
まだ、ほどけてはいない。
でも、どこを、誰と、ほどけばいいのか。
それだけは、もう、分かった。
——遥と、話そう。
今度は、私から。
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「さて」
麻美先輩が、ふっと空気を変えるように、背筋を伸ばした。
「最後に、もう一杯だけ、いい?」
「はい。何にいたしましょう」
「あなたが選んで」
「……え?」
「今のあなたが、今の私に出したい一杯。それをちょうだい」
——今の私が、今の麻美先輩に。
私は、バックバーを振り返った。
視線が、ジンの段で止まる。
デュボネ。チェリーブランデー。オレンジ。
——そうだ。
今夜は、私が慰めてもらうだけの夜じゃない。
春に式を控えた、大切な先輩の——門出を祝う夜でも、あるはずだ。
私は、迷いなくボトルを取った。
ジンを注ぎ、デュボネを重ね、チェリーブランデーを少し。
オレンジジュースを加えて、氷とともにシェイク。
——シャッ、シャッ、シャッ。
さっきのXYZの時とは、違う。
手が、震えていない。
カクテルグラスに注いだ液体は、夕焼けのような、温かい色をしていた。
「お待たせしました。——ウェディングベルズです」
麻美先輩は、グラスを見て、目を丸くした。
それから、口元を、そっと手で覆った。
「……もう」
「ご結婚、おめでとうございます。
……あの夜、ちゃんと言えていなかった気がして」
「言ってくれたわよ」
「言葉では。でも、一杯では、まだでした」
麻美先輩は、グラスを手に取り、ひと口飲んで——
少しだけ、目元を潤ませて、笑った。
「……泣かせないでよ。慰めに来たのは、私の方なのに」
「私たち、いつも、そうじゃないですか」
「……そうね」
麻美先輩は、笑いながら、ゆっくりと味わった。
「美味しい。……本当に、いいバーテンダーになったわね、香澄」
「先輩の、おかげです」
「ふふ。今夜だけは、素直に受け取っておくわ」
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(カランカラン♪)
麻美先輩を、扉の外まで見送る。
夜風は冷たいのに、先輩の頬は、少しだけ赤かった。
「じゃあね、香澄。……ああ、そうだ。最後に、ひとつだけ注文」
「はい?」
麻美先輩は、悪戯っぽく笑った。
「遥さんに——負けないでね」
「……」
「あなたは、私の、自慢の後輩なんだから」
それは、あの優しい麻美先輩が、初めて私に見せた——
勝負師の顔だった。
たぶん、現役の頃、一度も見せてくれなかった顔。
「……はい」
私は、深く、頭を下げた。
「必ず」
麻美先輩は、満足そうに頷いて、夜の街へ歩いていった。
その背中は、一年前に見送った時よりも、ずっと、軽やかだった。
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店に戻り、私は、二つのグラスを洗う。
ウェディングベルズのグラスと——XYZのグラス。
XYZ。
アルファベットの、最後の三文字。
「これ以上はない」という意味を込められた、終わりの名前を持つカクテル。
——麻美先輩は、その一杯から、私を始めてくれた。
終わりの名前から、始まったものがある。
だったら。
先輩と後輩、という関係がひとつ終わっても——
そこから、始まるものが、きっとある。
私は、グラスを丁寧に拭き上げ、棚に戻した。
明日、遥が出勤してくる。
——話そう。
全部、話そう。
みっともない気持ちも、全部。
麻美先輩が、私に見せてくれたみたいに。
店の灯りを落とす。
暗くなったカウンターの上で、磨き上げたグラスだけが、街灯の光を受けて、静かに光っていた。
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香澄さん主役のお話も、これで第五話。
過去のお話は、タグ「ほどく_A.Libra」より辿れます。
今回、麻美さんを本当に久しぶりに描きました。
このシリーズ、ここで麻美さんを出したいとは決めてましたが、私自身あまり麻美さんのキャラって固まってなかったんですよね。
どうしようどうしよう、と思ってるうちに中々書けず。
そうするとちょうどclaudeの話題モデルfableが、もう一度使えるようになりました。
簡単なプロットだけ与えて、後はお任せ!
でできたのがこちらです。
本当にビックリしました。私の想定する麻美さん、香澄さんがそのまま出てきました。
これ、ほんと誰でも小説家になれてしまうんじゃ…という恐怖がありましたね。
ただ、良い話だと思うのでこのまま投稿することにしました。
さて、いよいよこのシリーズも次でラスト。
季節感は逆ですが、近々アップさせてもらいます!
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