1619年8月30日(元和5年7月21日)、薩摩藩祖・島津義弘が亡くなりました。
享年85という戦国時代の武将としては非常に長寿な生を全うした彼の人生は幾多の激戦を潜り抜けてきたものでした。
その大半が圧倒的大軍を相手に勇猛さと知略で戦い抜いたことでも知られる、戦国稀代の『薩摩隼人』です。


義弘の戦いとして有名なのは1572年の木崎原の戦い、1592~98年の文禄・慶長の役など様々ですが、今回は1600年・関ヶ原の戦いにおける撤退劇『島津の退き口』にスポットを当てます。
何故今日のタイミングで語るかというと、10月21日の関ヶ原当日は扱うべきテーマが多すぎて島津について触れる余裕が無いからです😅


1600年の関ヶ原では、義弘は既に66歳の老将ながら約1,500の兵を率いて西軍に参戦しています。
しかし開戦から間もなく小早川秀秋の部隊が(事前の内応により)西軍から東軍へとへ寝返ったことにより戦場は早々と東軍優勢となり、島津隊は殆ど戦う機会が無いまま敗戦の混乱に巻き込まれてしまいました。
兵の逃亡も相次ぎ、残った手勢は僅か300。
西軍諸将は撤退のため自陣後方の北国街道と中山道へ殺到しており、タイミングを逸した島津隊は戦場のど真ん中で孤立してしまいます。
島津隊が選んだのは敵軍の正面部隊8000人を突破して逃げる『後退』ならぬ『前退』。
これが後世に前代未聞の撤退劇として語り継がれる『島津の退き口』です。


まず島津隊は東軍先鋒の福島正則の部隊へと突撃。
正則はこの時点で島津隊の鬼気迫る様子から境遇を何となく察していたようで、素直に道を譲ります。
島津隊はそのまま徳川本陣まで進撃、そのまま捨て身の玉砕――かと思いきや、目の前で方向転換して撤退ルートの伊勢街道へ進んでいきました。
この時に義弘は使者をその場に残し、薩摩へ帰国後に謝罪する旨を家康に伝達したのでした。


この唐突な撤退劇に徳川家臣団は大激怒。
井伊直政や松平忠吉ら徳川譜代が猛追劇を仕掛け、島津隊は家臣たちが次々と『死ぬまで』追っ手を足止めする『捨て肝』戦法で逃走時間を稼ぎ、義弘を含めた80余名が命からがら関ヶ原からの撤退に成功します。
この撤退中に甥の島津豊久を失うことになりました。


その後はろくに食事もとれないまま大坂まで移動し、人質とされていた妻子を救出してから薩摩へと帰還。
それでも追撃の手を緩めず薩摩への総攻撃を支度していた徳川軍に対し和睦交渉を始め、交渉役を務めた井伊直政の懇願も功を奏して島津家は最終的に本領安堵、事実上のお咎めなしという条件を勝ち取りました。


毛利輝元は泣いていい。


その後の義弘は家督を子の忠恒に譲り、訪れた泰平の世を悠々自適に過ごしました。
『鬼島津』の異名とは裏腹に医術や茶の湯、学問にも秀でた文化人としての側面もあり、晩年は隠居先で若手の育成に精力を注いでいます。
そんな激動の戦国時代を生き抜いた島津義弘ですが、大河ドラマなどでの出番は意外なほど少なく、メイン格の登場人物として扱われることは殆どありません。
酷い場合は関ヶ原を題材に扱った作品にも関わらず出番が殆どゼロなんてことも。
やはり文禄・慶長の役がネックなのでしょうか……。

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