終業後の会議室で、後籐先輩はモブくんの修正済み資料に目を落としていた。

蛍光灯は半分だけ落とされていて、窓の外には、夜のビルの明かりが小さく滲んでいる。会議室の机の上には、印刷された資料とノートパソコンと、先輩の赤ペンが一本。先輩はその赤ペンのキャップを、指先でくるくると回していた。

モブくんは平静な顔をしている。少なくとも、外から見ればそう見える程度には表情を整えているつもりだった。

ただ、先輩が資料を読む時間が長くなるほど、頭の中が妙に騒がしくなっていく。この沈黙は何を意味しているのか。単に読んでいるだけなのか。確認しているのか。何か引っかかっているのか。それとも、すでにコメントは決まっていて、言い出す前に一拍置いているだけなのか。

考え始めると、どれもあり得る気がした。賛成も反対も自分ひとりで出しているのに、結論だけが少しもまとまらない。

先輩が、資料の一箇所を指先で軽く押さえた。



「ここ、私が褒めそうな直し方してる」



褒めそうな直し方、という言い方が引っかかった。

いや、引っかかったというのは、少し感情に寄りすぎた表現かもしれない。正確には、いつものレビューコメントとして想定していた言葉の棚から、微妙に外れたものが出てきたせいで、頭の中の振り分けが一瞬止まった。

「良い修正だね」なら品質の評価だ。
「意図が伝わるね」なら伝わり方の評価だ。
「前より読みやすいね」なら改善幅の評価だ。

けれど、「私が褒めそうな直し方してる」は、そのどれとも少し違う。資料そのものを見ているようでいて、こちらが誰の視点を想定して直したのかまで、横から覗かれているような言い方だった。

実際、そこは前回、先輩が言っていた「相手に判断の余地を残す書き方」を反映した箇所だった。だから、自分としてはかなり明確に、前回のレビュー観点を踏まえて修正したつもりでいる。

つもり、というより、実際にそうした。資料を直すとき、過去の指摘を反映するのは当然だ。むしろ、反映しないほうがまずい。だから、この修正は業務として正しい。正しいはずだった。

それなのに、なぜ今、自分は「はい、そうです」と返せば済む場面で、ここまで内部処理を増やしているのだろう。

たぶん、レビューの精度が高い人に、修正意図をそのまま拾われたとき特有の緊張なのだと思う。資料の端に小さく引いた補助線まで見つけられたような感じ。いや、補助線というたとえは少し違うかもしれない。見つけてほしくて置いたというより、必要だから置いたものだ。

だから、見つけられてうれしい、という話ではない。うれしい、ではない。確認できて助かった、が近い。自分の修正方針が、先輩のレビュー観点とずれていなかった。それが分かったというだけだ。これは感情ではなく、検証結果だ。

返答は何が正しいのか。

「ありがとうございます」は危ない。まだ直接褒められたわけではない。「褒めそう」と言われただけで褒められたことにするのは、処理が早すぎる。

「狙いました」も危ない。何を狙ったのか説明することになる。「先輩ならそこを見ると思いました」は、業務上の予測としては成立するが、言い方によっては先輩個人を見すぎているように聞こえる可能性がある。

いや、見すぎているわけではない。レビュアーの観点を想定しただけだ。レビュアーを想定するのは資料作成の基本で、そこに問題はない。問題はないが、わざわざ口に出す必要もない。

結局、一番安全なのは「前回の指摘を踏まえました」だった。事実だし、業務上の説明としても過不足がない。余計なものが混ざりにくい。こういうときは、事実だけを出すに限る。

補足をつけると、補足がまた補足を呼ぶ。最終的に、自分でも何を守っているのか分からなくなる。短く、正確に、仕事の会話として返す。それが最適解だ。



「……前回の件を、踏まえました」



モブくんがそう答えると、先輩は資料から少しだけ目を上げた。

その表情は、怒っているわけでも、呆れているわけでもない。むしろ、予想通りの答えが返ってきたことを楽しんでいるように見えた。



「うん。そう言うと思った。でも本当は、私に気づいてほしかったでしょ?」



処理が止まった。

いや、止まったというより、処理待ちの行列がいきなり増えた。どれから片づければいいのか分からない。

まず、「そう言うと思った」という前半が問題だった。こちらが選んだ安全な返答は、すでに先輩の想定内だったらしい。つまり、自分が安全圏に置いたつもりの言葉は、最初から先輩の赤ペンの届くところにあったことになる。では、安全圏とは何だったのか。

そして後半の「私に気づいてほしかったでしょ?」である。

これは、踏み込みが深い。資料レビューの会話としては、少し距離が近い。近いというのは、机を挟んだ物理的な距離ではない。言葉がこちらの内側に入ってくる角度の話だ。

ただ、内容そのものを完全に否定できるかと言われると、できない。前回の指摘を反映した箇所に気づいてもらえれば、修正方針が間違っていなかったことを確認できる。それは事実だ。

つまり、これは承認欲求ではない。少なくとも、承認欲求だけではない。いや、そもそも今ここで承認欲求という言葉を持ち出す必要があるのか。ない。業務上は、レビュー観点の再現性確認、くらいで説明がつく。

自分は先輩に気づいてほしかったのではなく、修正意図が正しく伝わるかを確認したかった。主語は先輩ではなく、修正意図だ。

いや、でも先輩が気づかなければ確認できないのだから、結果的には先輩に気づいてほしかったことになるのか。

違う。たぶん違う。それは手段と目的の混同だ。目的は資料品質の向上で、先輩に気づかれることは、そのための確認手段にすぎない。そうだ。手段だ。手段にすぎない。

問題は、これをそのまま口に出したとき、どう聞こえるかだった。

「いえ、先輩に気づいてほしかったというより、修正意図がレビュー観点に沿っているか確認したかっただけです」と言えば、一応は仕事の話に戻せる。戻せるが、長い。長い返答は、防御に見える。防御に見える返答は、そこに何か守りたいものがあるように見える。

守りたいもの。

いや、別にそんなものはない。あるとすれば資料の品質と、自分の社会人としての平静さだ。平静さは守りたい。今かなり危ない気がする。

「そんなことないです」は無理だった。事実として、気づいてもらえたほうがいいとは思っていた。資料の修正箇所に気づいてもらえたほうが、レビューとして有益だからだ。全否定は嘘になる。

「はい」も無理だった。何を認めることになるのか、範囲が広すぎる。資料の話なのか、修正意図の話なのか、先輩個人の話なのか、自分でも切り分けられていない状態で「はい」と言うのは危険すぎる。そんな曖昧な承認は、稟議に通らない。何の稟議だ。

となると、「少しは」が最も妥当だった。

便利な言葉だ。全面的な肯定にはならないし、かといって嘘にもならない。業務上の確認としても成立する。たとえば、「少しは気づいてもらえると助かります」という意味なら、おかしくない。

いや、そこまで言う必要はない。「少しは」だけでいい。短い。曖昧だが、曖昧だからこそ余白がある。会話にも余白は必要だ。資料でもそうだ。相手に判断の余地を残す書き方。そう、これは前回の指摘の応用である。会話にも適用できる。たぶん。



「……少しは」



先輩は、赤ペンのキャップを閉めた。

かちり、という小さな音が会議室に響く。



「少し、ね。じゃあ今日は、気づいたってことにしておく」


「……ありがとうございます」


「どういたしまして。次も、分かりやすくしてくれたら気づきやすいな」




モブくんは、心の中で次回案件の作業工数を冷静に正確に見積もり直した。
なぜか、倍になっていた。




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前回のモブくん
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