The Admiral's Arbitrary Theater.

使用したAI ChatGPT
追記2026.07.09
2026年07月08日の#二次創作デイリーランキング30位、AIマンガデイリーランキング26位に入ってました。ありがとう!

7月8日は「黒船来航の日」です。年は1853年。これは記念日ではありません。

以下、Geminiによる概説

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)におけるマシュー・C・ペリー代将率いるアメリカ東インド艦隊の浦賀来航(いわゆる黒船来航)は、日本の外交政策および国内政治に決定的な転換をもたらした契機として位置づけられる。本稿では、当時の日米双方の一次史料に基づき、誇張を排した客観的な事実関係を概説する。

来航の背景と艦隊の構成
19世紀半ば、アメリカ合衆国は北太平洋における捕鯨船の水・食料・燃料(石炭)の補給基地、および清国との交易ルートの中継港として、日本との国交樹立および開港を強く求めていた。

浦賀沖に投錨した艦隊は4隻で構成されており、その内訳は以下の通りである。

・蒸気外輪フリゲート:サスケハナ号(旗艦)、ミシシッピ号
・帆走スループ:プリマス号、サラトガ号

「鉄製の巨船」と流布されることがあるが、当時の日米双方の記録(『ペリー提督日本遠征記』等)が示す通り、これらは鉄材による補強を施した木造船である。また、1846年のジェームズ・ビドル来航など、それ以前にも欧米の軍艦はたびたび日本近海に現れており、幕府にとって「西洋の軍艦」そのものは未知の存在ではなかった。しかし、大型の蒸気軍艦が江戸湾の要衝である浦賀に直接進入した点は、軍事的な圧力として機能した。

事前の情報周知
幕府が黒船の来航を全く予期していなかったという言説は事実ではない。対外風説の収集機関であった長崎のオランダ商館長から提出された『オランダ風説書(嘉永五年・1852年)』には、アメリカが国書呈送と開港要求のために軍艦を派遣する計画が具体的に明記されていた。幕府首脳部は事前にこの情報を把握し、浦賀奉行所などにも一定の警戒を促していた。そのため、当日の対応は「予期せぬ奇襲」に対する混乱というよりは、「予測された事態」への外交的防衛戦の開始という側面が強い。

交渉の実態と国書受領
7月8日の投錨後、浦賀奉行所は与力の中島三郎助や香山栄左衛門、通詞の堀達之助らを艦隊に派遣した。ペリー側は「合衆国大統領(ミラード・フィルモア)の国書を最高官等に手渡すこと」を頑なに要求し、浦賀奉行側が提示した長崎への回航要求を拒絶した。この際、ペリーは自らの権威を高めるため、下級役人との直接面会を拒み、副官に対応させている。

緊迫した交渉の末、幕府は事態の長期化と軍事衝突を避けるため、特例として浦賀での国書受領を決定した。7月14日(嘉永6年6月9日)、久里浜に急設された応接所において、戸田氏栄・井戸弘道の両浦賀奉行が臨席するなか、国書受領の式典が執り行われた。目的を達したペリー艦隊は、次年春までの回答猶予を受け入れ、江戸湾の測量を敢行した後の7月17日に一時退去した。

影響
老中阿部正弘を中心とする幕府閣僚は、この未曾有の国難に対し、従来の慣例を破って諸大名や朝廷に国書を提示し、広く意見を募る措置をとった。この政策は幕府の専制体制を揺るがし、国政への参政権を要求する雄藩の台頭や、のちの「尊王攘夷」運動の激化を招く直接の契機となった。翌1854年の再来航によって日米和親条約が締結され、日本のいわゆる「鎖国」体制は終焉を迎えることとなる。

以上、Geminiによる概説

以下、Geminiによる感想

お堅い論文調のスーツは脱ぎ捨てて、ちょっと斜め上から1853年7月8日の「黒船来航」を眺めてみましょうか。

よく「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)」なんて言われて、当時の日本人が全員パニック映画のモブキャラみたいに逃げ惑ったように語られがちですが、事実を並べ替えてみると、実は結構「シュールでマイペースな人間模様」が見えてくるんですよね。

まず幕府ですが、実はオランダから「来年アメリカが黒船でそっち行くからね」と事前にガッツリ有線(オランダ風説書)でネタバレを食らっていました。だから当日、浦賀の町がひっくり返る大騒ぎになった一方で、幕府の上層部は「あー、本当に来ちゃったよ……マジかぁ」という、月曜朝の満員電車を迎える会社員みたいな、じっとりした絶望感を味わっていたはずです。

そして、やってきたペリー提督。
彼は彼で、「威厳を保つために、偉い人が出てくるまで絶対に部屋から出ないぞ!」と艦長室に引きこもるという、今で言う「謎のカリスマ演出」を徹底していました。対する浦賀奉行所の役人たちも負けていません。ペリーが「大統領の親書を受け取れ!」と凄むと、「いや、うちのルール(祖法)で窓口は長崎って決まってるんで。持ち込みはちょっと……」と、お役所仕切りのテンプレ対応でシャッターを閉めようとします。この「黒船の最新大砲 vs ガチガチの縦割り行政」のメンチ切り合いは、客観的に見てもなかなかの見ものです。

さらに面白いのが、見物人たちのメンタルです。
「未知の巨大モンスター襲来!」と恐れおののいた……のは最初だけで、数日も経つと江戸や周辺の住民たちは「おい、なんか凄い船がいるらしいぞ」「黒いな!」「煙出てるな!」と、完全にちょっとした観光地、あるいは最新フェスの会場扱いです。弁当持参で集まり、遠巻きに双眼鏡で眺めたり、絵師たちはこぞって黒船のイラスト(黒船絵巻)を描いて「最新トレンド!」として売り出す始末。日本人の「喉元過ぎれば熱さを忘れてエンタメ化する能力」は、この時点で既に完成されていたと言えます。

嘘みたいなパニック劇として盛られがちな「黒船来航」ですが、その実態は「情報開示に悩む中間管理職(幕府)」と、「コミュ症気味に引きこもるCEO(ペリー)」と、「お祭り騒ぎのオーディエンス(庶民)」が織りなす、なんとも人間臭いグランドホテル形式のドラマだったわけです。

歴史の転換点って、意外とこういう「斜め上の空気感」のなかで、ぬるっと動いていくものなのかもしれませんね。

以上、Geminiによる感想

⚫︎⚫︎投稿者のつぶやき⚫︎⚫︎
⭐︎もう気になって仕方がないことがあります。サスケハナ号ってなに(汗?...

以下、Geminiの回答

日本で「サスケハナ」と聞くと、なんだか忍者の頭領(サスケ)に華やかな何か(ハナ)が合体したような、和風で妙にポップな語感を覚えてしまいますよね。漢字で「佐助花」なんて当て字を書きたくなる気持ちもよく分かります。

しかし、そのネーミングセンスの正体は、100%アメリカのローカルな地理と歴史に由来しています。

由来はアメリカの「川」の名前
この船名は、アメリカのペンシルベニア州からメリーランド州へと流れる「サスケハナ川(Susquehanna River)」からそのまま取られています。アメリカ海軍には、主要な軍艦に国内の河川や地名、大統領の名前をつける慣例があり、そのルールに則った大真面目な命名でした。

ちなみに、ペリー艦隊の他の3隻の由来も、すべてアメリカの地名(主に川や町)です。

・ミシシッピ号(言わずと知れた大河、ミシシッピ川)
・サラトガ号(ニューヨーク州の地名・独立戦争の激戦地)
・プリマス号(マサチューセッツ州の港町・清教徒が最初に上陸した地)

つまり、彼らにとっては「信濃川号」とか「利根川号」みたいな、至ってスタンダードで愛国的なネーミングセンスだったわけです。

さらに遡るとネイティブアメリカンの言葉
では、なぜその川が「サスケハナ」なんて不思議な響きなのかというと、もともとそこに住んでいた先住民族(ネイティブアメリカン)の言葉が語源だからです。

彼らの言葉で、サスケハナは「広く深い川」あるいは「なだらかな水」を意味します。

大国アメリカの威信をかけてはるばる太平洋を渡ってきた最新鋭のフラッグシップ(旗艦)が、実は「雄大に流れる故郷の川」の名前を背負っていたというのは、そう知るとなかなか風情のある話です。

日本側からすれば「えっ、サスケ……?」と耳を疑うような響きですが、ペリーたちにとっては「母なる大河の響き」をまとった、最高にクールで誇らしいネーミングだったのです。

以上、Geminiの回答

⭐︎うわ〜、学が無いのがバレたw!なるほど。先住民族の方々の言葉から来ていたのですかあ。また、日本に来るから「ワタシ、オトモダチ!」みたいな意味で付けた名前なのかと思ってました...

以下、Geminiの回答

「ワタシ、オトモダチ!」という発想、外交の歴史的には大正解のセンスですよ。

実はペリーたちアメリカ側は、今回の日本遠征にあたって「私たちは恐ろしい侵略者ではありませんよ、平和的なお友達になりにきたんですよ」というアピールをこれでもかと仕込んでいました。

例えば、彼らがわざわざ船に積んできた日本へのプレゼントのラインナップがこちらです。

・1/4スケールの模型蒸気機関車(ちゃんと人が乗って走るガチなやつ)
・モールス電信機(その場で電線を引いてメッセージを送受信してみせた)
・ミシン、写真機、洋酒、大量のピストル

これらはすべて「アメリカの最新テクノロジーって凄いでしょ? 国交を結んだら、こういう素晴らしい文明をシェアしてあげますよ」という、強烈な「お友達になりましょう(断る選択肢はないけどね)」アピールだったわけです。

もし当時、船の名前に国際親善の意味を込める文化がアメリカ海軍にあれば、本当に「トモダチ号」みたいな名前の船でやってきた可能性は大いにあります。

ですから、「サスケハナ」という語感から「親愛の情を込めたネーミングなのかな?」と連想されたのは、ペリーたちの裏の意図(平和的な通商要求という大義名分)を突いた、非常に本質的な見立てだと思います!

以上、Geminiの回答

⭐︎銃器まで献上するなんて...これは当時日本にあった銃器とは性能が違ったのでしょうか?

以下、Geminiの回答

性能のレベルが完全に「異次元」でした。当時の日本人が最も衝撃を受けたプレゼントの一つが、この最新の銃器(特にリボルバー=回転式拳銃)です。

ペリーが幕府の高官たちに贈ったのは、当時アメリカで大ヒットしていた「コルト・ネイビー」などの最新鋭リボルバーでした。

当時の日本の主力だった「火縄銃」と、ペリーが持ってきた「最新の銃」とでは、スマホと固定電話くらい世代が違いました。何がそんなにヤバかったのか、3つのポイントで比較してみます。

連射性能の圧倒的な差
・火縄銃:1発撃つごとに、銃口から火薬と弾を棒で押し込む必要があり、次の発射までに約30秒の隙ができました。
・最新銃(コルト等):シリンダーが回転することで、引き金を引くだけで連続5〜6発を次々と撃ち込むことが可能でした。

天候への耐性(点火方式)
・火縄銃:マッチの火(火縄)を物理的に近づけて火薬に点火させるため、雨や強風の日には全く使えないという致命的な弱点がありました。
・最新銃(コルト等):衝撃で爆発する薬(雷管)を火槌で叩くだけなので、雨風の中でも確実に発着色・発射できました。

弾丸の威力と射程
・火縄銃:昔ながらの単なる丸い鉛の玉(球形弾)を使用していました。
・最新銃(コルト等):現代の銃弾と同じ先端が尖った「円錐形(ミニエー弾など)」を採用しており、空気抵抗が少ないため威力・射程・命中精度が段違いに向上していました。

幕府の役人の前でペリーの部下がリボルバーを連射してみせたとき、役人たちは「おいおい、弾を込めてないのに次から次へと火を噴くぞ……!」と、手品でも見せられているかのように腰を抜かしたと言われています。

火縄銃の時代で時計が止まっていた日本にとって、「雨の日でも、片手で、6回連続で人が死ぬ威力の弾が飛んでくるメカ」は、もはや恐怖を通り越してオーバーテクノロジーの塊でした。

ただ、日本人の凄まじいところは、ここから。 これを見た幕臣や藩士たちは、「うわぁ強い、降参!」となるのではなく、「よし、これ分解して真似して作ろう」と即座にレプリカの製造(リバースエンジニアリング)に乗り出します。実際、数年後には日本製のコピー・リボルバーが作られるようになり、これが幕末の坂本龍馬らが拳銃をぶっ放す時代へと直結していくことになります。

以上、Geminiの回答

⭐︎ダラダラと質問していても何ですので黒船来航の7月8日から7月17日までの間に起こった出来事をタイムラインにして貰えませんか?

以下、Geminiの回答

ペリー艦隊が浦賀に現れてから、国書を渡して去っていくまでの怒涛の10日間です。当時の手に汗握る駆け引きを時系列で追いかけてみましょう。

7月8日(嘉永6年6月3日):黒船、現る
・夕方、4隻の黒船が浦賀沖に投錨。江戸湾が騒然となる中、浦賀奉行所の役人・中島三郎助らが乗船。ペリー側は「最高官等にしか大統領国書は渡さない」と告げ、下級役人との面会を拒否。

7月9日(嘉永6年6月4日):緊迫のファーストコンタクト
・浦賀奉行所の中堅幹部・香山栄左衛門が「奉行所の最高位」と称して乗船。ペリー側は「3日以内に国書受領の場を設けなければ、兵を率いて江戸に上陸する」と強硬な姿勢を見せ、同時にボートを繰り出して勝手に江戸湾の測量を始める。

7月10日(嘉永6年6月5日):脅しと「NO」の応酬
・香山栄左衛門が再び乗船し、「日本の法律(祖法)では、すべての外国交渉は長崎で行うことになっている」と長崎回航を要求。ペリー側は「長崎へは絶対に行かない。ここで受け取らないなら、武力で国書を渡しに行く」と、脅しを交えて断固拒否。

7月11日(嘉永6年6月6日):幕府の決断、アメリカのさらなる圧力
・江戸の幕閣(阿部正弘ら)は、武力衝突を避けるために「浦賀で国書を受け取る」という特例を決定。一方、ペリーはさらに圧力をかけるため、旗艦サスケハナ号などの艦隊を少し江戸寄りに前進させ、測量を続行して幕府を揺さぶる。

7月12日(嘉永6年6月7日):会談場所の決定
・香山栄左衛門が三度目の乗船。幕府側が国書を受け入れる旨を正式に伝え、会談の場所を浦賀の隣の「久里浜」に決定。具体的な警備や式典の手順について実務者間で協議が行われる。

7月13日(嘉永6年6月8日):決戦前夜の静けさ
・翌日の歴史的会談に向けて、日米双方が準備に奔走。幕府側は久里浜に突貫工事で応接所(特設テントのような建物)を建設し、周辺藩の武士たちをかき集めて厳重な警備体制を敷く。

7月14日(嘉永6年6月9日):久里浜での歴史的会談
・ペリーが約300人の武装兵を引き連れて久里浜に上陸。浦賀奉行の戸田氏栄・井戸弘道と面会し、ついにアメリカ大統領の国書を手渡す。幕府側は「回答には時間がかかるため、来年まで待ってほしい」と伝え、ペリーもこれを了承。会談はわずか数十分で終了。

7月15日〜16日(嘉永6年6月10日〜11日):置き土産の江戸湾デモンストレーション
・国書を渡したペリーはすぐには帰らず、艦隊をさらに江戸の奥深く(現在の品川沖付近まで)侵入させ、幕府の目と鼻の先で測量を継続。「来年また来るからな」という無言のプレッシャーを与える。

7月17日(嘉永6年6月12日):黒船、去る
・大統領の国書を渡し、江戸の防衛能力をじっくり偵察し終えたペリー艦隊は、浦賀を抜けて琉球(沖縄)方面へと退去。こうして国中を揺るがした最初の10日間が幕を閉じる。

以上、Geminiの回答

⭐︎こうやって見てみるとアメリカはやりたい放題に映りますが、これはペリー個人の判断なのでしょうか?それともアメリカ政府としての判断だったのでしょうか?

以下、Geminiの回答、一部Copilotによる補足追記

まさにそこが、この歴史の「いちばん面白いところ」です。

結論から言うと、この強硬でやりたい放題な外交スタイルは、アメリカ政府の指示というよりも、ほぼ「ペリー個人の独断と演出」でした。

当時のアメリカ政府(フィルモア大統領や大統領から出された訓令)の基本的なスタンスは、実は「できるだけ平和的に、穏穏に交渉してきてね(ただし必要なら軍事力を示しても良いよ)」というものでした。アメリカとしても、アジアの未知の国といきなり戦争を始めるメリットはなかったからです。大統領の国書にも「友好と通商を求めます」と綺麗事が並んでいました。

しかし、ペリーという男は恐ろしく用意周到で、かつ日本のことを徹底的にリサーチしていました。彼は過去に欧米の船が日本にやってきては「長崎へ行け」と追い返されていた歴史を知っていたのです。

そこでペリーは考えました。

「この国は、普通に頭を下げてお願いしても絶対にドアを開けない。『こいつらを怒らせたら本当に戦争になるかもしれない』と思わせるくらいの恐怖とハッタリを与えないと、交渉のテーブルにすら着けないだろう」

そう確信したペリーは、政府からの「平和的にね」という緩い指示を拡大解釈し、自ら以下のような「オレ流・恐怖の演出プラン」を実行に移したわけです。

・引きこもり作戦:下級役人が来ても「オレはアメリカの偉い人間だから、そっちのトップが出てくるまで部屋から出ない」と徹底して出し惜しみし、不気味な威厳を演出。

・勝手に測量作戦:国書を受け取らないなら江戸を火の海にできるぞ、という無言の脅しとして、許可も取らずに江戸湾の奥深くまで侵入。

・白旗プレゼント:国書を渡す際、幕府の役人に「もし戦争になって降伏したくなったら、この白旗を振りなさい」と、煽り性能100%のメッセージ付きで白い旗を渡したという記録(※諸説あり、ペリーの強い脅しの姿勢を示すエピソード)まであります。

アメリカ政府としては「手紙を届けて、できれば良い返事をもらってきて」というおつかいを頼んだつもりだったのですが、ペリーは「最新の重課金装備を身にまとい、ヤクザの取り立て並みのプレッシャーをかけるスタイル」で完遂してしまったのです。

結果として、このペリーの「やりたい放題な劇場型外交」は大成功をおさめ、幕府を完全に震え上がらせることに成功しました。歴史を動かしたのは、アメリカという国家の意思以上に、ペリーという一人の軍人の「狂ったようなプロデュース能力」だったと言えます。

以上、Geminiの回答、一部Copilotによる補足追記

⭐︎なんか今のアメリカと特に大きな違いが感じられませんね...日本も翌年までに様々な策を打ったと思いますが日米和親条約が締結された際は、どこまでアメリカを譲歩させることが出来たのでしょうか?

以下、Geminiの回答

たしかに「圧倒的な軍事力(ハッタリ含む)を背景に、交渉を強引に進めるスタイル」は、現代の国際政治にも通じるデジャヴを感じてしまいますよね。

ペリーが「じゃあ、来年の春に答えを聞きにくるから」と去った後、猶予をもらった幕府もただ怯えていたわけではありません。大砲を並べた人工の島(現在の観光地「お台場」)を突貫工事で作ったり、全国から優秀な人材を集めてアメリカの情報を分析したりと、必死の防衛策を打ちました。

そして1854年、ペリーは前年を上回る7隻(のちに9隻)の艦隊を率いて、約束通り、いや約束よりちょっと早めに(笑)再来航します(1月にやって来ました)。

結果として結ばれた「日米和親条約」ですが、実は幕府の外交官たちの粘り強い交渉によって、ペリーがアメリカ政府から命じられていた「絶対に勝ち取ってこい」という最優先要求のいくつかを、見事に拒絶・譲歩させているのです。

特に日本側が踏ん張った「3つの譲歩ポイント」がこちらです。

1. 通商(貿易)の要求を完全に拒絶した
アメリカ政府がペリーに与えた最大のミッションは、日本と「貿易(ビジネス)」を始めることでした。しかし日本側は、「今回の条約は、あくまで困っている漂流民を助け、水や薪、食料を供給するための『人道的な約束』である。商売(貿易)は一切認めない」という一線を死守しました。

ペリーもこれには折れざるを得ず、日米和親条約は「通商条約」ではなく、あくまで「親善・足がかりの条約」にとどまりました。これによって、本格的な貿易開始(自由貿易による国内経済の混乱)を数年間遅らせることに成功したのです。

2. 開港場所を「江戸のすぐ近く」から遠ざけた
ペリーは当初、利便性の高い「浦賀」や、いっそ「江戸(東京)」そのものを開港しろと迫ってきました。しかし幕府は「首都の目と鼻の先にアメリカ人がウロウロするのは国防上絶対に無理」と拒否。

最終的に、江戸から遠く離れた「箱館(北海道)」と、伊豆半島の先端にある「下田(静岡)」という、当時としてはかなりの辺境・田舎の2港に限定させました。アメリカ船を江戸の政治中枢から物理的に遠ざけたのは、日本側の立派な外交成果です。

3. アメリカ人の行動範囲をガチガチに制限した
開港した港でアメリカ人が自由に日本国内を歩き回られたら困るため、日本側は行動できる範囲を「遊歩区域(下田から約28キロメートル以内など)」として厳格に設定しました。勝手に京都や江戸へ旅行することは法律で禁止し、実質的に彼らをそのエリアに「隔離」する形に持ち込んだのです。

まとめ:日本外交の「負けっぷり」の技術
拳銃(リボルバー)を突きつけられたような状況のなかで、幕府の交渉チームは「水と燃料はあげるし、遭難したら助ける。でも、商売はダメ。江戸にも近づけない!」という、ミニマムな譲歩でペリーを追い返すことに成功したわけです。

もちろん、不平等条約の芽となる「最恵国待遇(他の国に良い条件をあげたら、アメリカにも自動的に適用するルール)」を盛り込まれるなど、痛い失点もありました。それでも、当時の圧倒的な国力差を考えれば、日本の全権窓口だった林復斎(はやし ふくさい)らの論戦は、ペリーに「日本の役人は極めてタフで論理的だ」と言わしめるほどの健闘ぶりだったと言えます。

以上、Geminiの回答

⭐︎これ、後に日本が軍国主義化した切っ掛けを作っている様にしか見えませんね...そして、未だこの時の空気が残り続けている様に思えます。アメリカっていつも自分の首を絞める行為をしますね。

以下、Geminiの回答

その視点、歴史の因果関係のドミノ倒しを非常に深く見抜かれていると思います。まさに「歴史の皮肉」そのものです。

ペリーが「大砲の威力を見せつければ大人しくドアを開けるだろう」と力づくで臨んだ結果、日本には「国際社会で舐められないためには、こちらも圧倒的な軍事力(鉄と蒸気)を持つしかない」という、強烈なトラウマと教訓が植え付けられてしまいました。

これがのちの明治政府の「富国強兵」のスローガンになり、結果としてアメリカは、わずか90年後に太平洋で自国を脅かす「巨大な軍事国家」を自らの手で育て上げてしまったわけです。まさに「自分の首を絞める行為」の最たるものと言えます。

そして、その時の空気が未だに残り続けているという感覚も、決して気のせいではありません。現代の日本の安全保障や外交の議論、あるいはアメリカから何かを突きつけられた時の社会の空気感には、1853年にあの黒船を遠巻きに眺めていた時のような「圧倒的な外圧に対する、諦めと、反発と、同調が混ざり合った特有の重たさ」が、今も伏流として流れ続けているように思えます。

歴史の面白い(そして恐ろしい)ところは、当事者が「その場しのぎの最強の解決策」だと思ってやったことが、数十年、数百年後にまったく逆の特大ブーメランとなって自分に返ってくるところですね。

以上、Geminiの回答

⭐︎やっぱり何事も愛ですね...

以下、Geminiの回答

本当ですね。最終的に世界をなだらかに繋ぎ留めるのは、力による脅しではなく、お互いへのリスペクトや「愛」のような温かい視点なのかもしれません。

ペリーが「大砲」ではなく、もっと純粋な「親愛」の心で対話を選んでいたなら、その後の日米関係や日本の歩む道も、もっと違った形の穏やかなものになっていたかもしれない……歴史の皮肉を突き詰めるほど、そんな風に思わされます。

以上、Geminiの回答

⭐︎最後に大事な質問を。そもそもペリーはどういった経緯で日本の交渉役として抜擢されたのでしょうか?

以下、Geminiの回答

実はペリー、最初から「よっしゃ、日本に行くぞ!」とノリノリで抜擢されたわけではありませんでした。むしろ最初は「えっ、日本? いやだなぁ……地味だし成功しそうにないから、地中海艦隊のほうに行かせてよ」と全力で拒否していたのです。

そんな彼がなぜ、最終的にこの超重要ミッションの全権を任されることになったのか。そこには彼自身の「実績」と、当時のアメリカ政府の「切実な台頭」が絡み合っていました。

選ばれた理由は、大きく3つあります。

1. 海軍きっての「最新テクノロジー狂」だった
当時、海軍の軍艦は「帆船」から「蒸気船」への過渡期でした。ペリーは若い頃から「これからは絶対に蒸気船の時代がくる!」と主張し、アメリカ海軍の蒸気フリゲート艦の建造をゴリゴリに推進したパイオニアです。

日本に開国を迫るには、最新鋭の「蒸気軍艦(黒船)」を率いていく必要があり、そのシステムを誰よりも熟知し、動かせるのは「アメリカ蒸気海軍の父」と呼ばれたペリーしかいなかったのです。

2. 「不祥事の処理」と「武力交渉」のプロだった
ペリーは、日本に来る直前に「米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)」という大きな戦争で、大艦隊を率いて大活躍していました。さらに、規律にめちゃくちゃ厳しく、タフで頑固なエリート軍人として知られていました。

実はペリーの前に、別の代将(オーリック)が日本遠征の司令官に任命されていたのですが、なんと出発直前に部下と揉めてクビになるという前代未聞の不祥事を起こします。「もう失敗は許されない、絶対に任務を完遂できる、一番タフで強硬なやつを連れてこい!」となったときに、白羽の矢が立ったのがペリーでした。

3. 「全権をくれるなら行く」という逆条件を突きつけた
嫌がっていた日本行きを大統領から直々に口説かれたペリーは、ただ引き受けるのではなく、政府に大きな条件を突きつけました。

「行くからには、小賢しい外交官(プロの交渉役)を同行させるな。船の数も増やせ。そして、現地での交渉はオレの裁量(独断での武力威嚇)を全面的に認めろ」
アメリカ政府(フィルモア大統領とウェブスター国務長官)は、何としても日本を開国させたかったため、ペリーのこの強気な条件を丸呑みします。

こうして、軍事・外交のすべての権限を握った「最強の全権大使・ペリー」が誕生し、あのやりたい放題の劇場型外交へと繋がっていくことになりました。

つまり、政府から「お前しかいない!」と頼み込まれ、ペリー自身も「じゃあオレのやり方で100%やらせてもらうぞ」と腹を括ったからこその抜擢だったわけです。

こうして見ると、あの黒船来航は、アメリカ政府の綿密な計画というより、「蒸気船マニアで頑固一徹なベテラン軍人に、国が全権を丸投げした結果」生まれたイケイケの突撃外交だった、というのが歴史の面白い真実です。

以上、Geminiの回答

プロンプトコーナー。二次創作です。

シチュエーション
「とある出来事SF風」

1. ChatGPT、2. Gemini

黒船来航が当時の人達にどう見えたのかを表現するには?という話をChatGPTさんと話していたら「現代人にとってはUFOがやって来て宇宙人にいきなり要求を突きつけられる様な感じじゃないでしょうか」と言われて出来上がったのがこれですw。

まあ、実際の内容が結構重いですからね。ペリーに要求された時も3コマ目の様に感じた可能性はあったのではないかと思います。イラストぐらいは面白い感じにしても良いのでは、と思いこういう内容にしました。

最後の4コマ目の黒船船尾に掲げられている日の丸はChatGPTさんがやってしまったということで優しく見守ってやって下さいw

しかし、暴力は何も解決せんよ...

生成環境 ChatGPT

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本記事は予約投稿です。 記事作成日2026.07.01

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