メガネ622

使用したAI その他
その停留所には、朝の七時十五分、いつも僕と彼女の二人しかいなかった。
​片側一車線の道路を挟んで、向かい合わせに設置された二つのバス停。それが僕たちの世界のすべてだった。僕は駅へ向かうバスを待ち、彼女はそれとは逆方向、オフィス街へ向かうバスを待つ。
​彼女はいつも、知的な銀のフレームのメガネをかけていた。ベンチに座り、膝の上で文庫本を開く彼女の姿は、朝の光の中で一幅の絵画のように完成されていた。
​僕はいつしか、スマートフォンの画面を見るのをやめていた。視線の端で、彼女がページをめくる指先や、不意にメガネのブリッジを押し上げる仕草を追いかける。それは名前も知らない彼女に対する、僕だけの密かな儀式だった。
​そんなある朝、事件は起きた。
ふと顔を上げた彼女の視線が、逃げる間もなく僕の瞳と真っ直ぐにぶつかったのだ。
​「――っ」
​心臓が跳ね、肺から空気が抜け落ちる。僕はあまりの恐縮さと気恥ずかしさに、まるで悪いことでもしていた子供のように、とっさに視線を地面へと逸らしてしまった。
​最悪だ。嫌われたかもしれない。変な奴だと思われたに違いない。
その日、僕がどんな風にバスに乗り込み、どんな風に一日を過ごしたのか、全く記憶になかった。
​翌朝、停留所へ向かう足取りは鉛のように重かった。昨日の失態を思えば、いっそ一本早いバスに変えようかとも思った。けれど、僕の体は磁石に引かれるように、いつもの時間にいつもの場所へ向かっていた。
​恐る恐る向かい側を見る。彼女は、いた。
そして、昨日と同じように視線が合う。
​また逸らしてしまうのか。そう自問した瞬間、彼女が小さく、本当に小さく首を傾けて、恥ずかしそうに「会釈」をした。
​メガネの奥の瞳が、ふわりと和らぐ。
それは拒絶ではなく、明確な肯定だった。
​その日から、僕たちの関係は「沈黙の共犯者」になった。
毎朝、視線を合わせ、どちらからともなく会釈を交わす。彼女がバスに乗り込む間際、最後にもう一度だけ振り返って会釈をしてくれる。言葉こそないが、その数秒間のやり取りが、僕の一日を動かす唯一のエネルギー源になっていった。

呪文

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