背水の陣

使用したAI Dalle
(...確かにいくら守城戦とはいえ、彼我戦力差が1:4ではまともな勝算など立たぬ...であれば、「まとも」でない勝算を模索するしかあるまい)

張子房の言葉を聞いて、陳平は思った。

...後日、所謂滎陽の戦いにおいて、この陳平主導による「まとも」ではない戦い方は存分に発揮され、陳平の智謀鬼謀を歴史にとどめることになる...が、それはまた後日の話である。

...

しかし、そんな漢の苦境を救うまさに「奇跡」は十月になって河北戦線からもたらされた。

韓信と張耳率いる北伐軍が、井陘口で趙王と陳余が率いる二十万と号する趙軍を破り、代と趙二国を完全に制圧し、河北における漢の覇権をほぼ確立したのである。
(この時点で残るは、燕と斉二国のみ)

そして、この奇跡的な戦勝と共に韓信は、所謂「背水の陣」の言葉と共に神話的な軍事的天才の名を不朽のものとしたのだった。

中国において「号する」と表現された兵力は、ほぼ実数としては半分とみてよい。それでも恐らく趙軍の兵数は十万である。

対する韓信と張耳の兵力は精々二万程度ではなかったか。
(劉邦も、そして参謀の張子房も陳平も、主戦場に設定した滎陽に可能な限りの兵力を集結させる為、韓信と張耳に大軍を授けることが出来なかった)

ちなみに現代日本においても「背水の陣」という定型句は常用されるが、実は正しい意味では使われていない。

韓信の背水の陣とは現代日本人が考える意味のものではなく、恐ろしいほどに戦場の人間心理を洞察しきった、完璧な合理性の下に立案された戦術であった。

いずれにせよ南方で九江を失いそうな漢ではあったが、河北において魏、代、趙の三国を征服し、三国からの物資と兵員の動員が可能になった訳である。征服したばかりの国から、物資も兵員も即座に中原に投入できる訳ではないが、それでも余力がわずかながら生じたことは事実である。
(事実、この河北における余力が後に漢の危機を救い、戦局を逆転させる大きな要因となる)

つまり、彭城の大敗戦で破滅的な損失を被った漢の兵力が大幅に強化されることを意味し、漢としては来るべき滎陽の戦いにおいて絶望的な戦略条件下に置かれる最悪の事態を脱した訳であった。

...

代と趙への征旅に先立つ数日前、恒山王張耳は息子の張敖と共に出陣の準備を整えていた。

劉邦から、韓信の北伐軍に副将として参陣するよう求められた時、張耳は勇躍した。陳余に恒山国を奪われて一度は我が人生も終わりかと悲観していた処を劉邦に救われたものの、領土も兵も持たぬ無力な王であったことに変わりはない。

先年の反項羽連合軍においては、陳余から身を隠す為、諸王との会合の場にも顔を出せなかったのである。
(陳余は漢との同盟に際して、張耳の首を代価として要求し、漢は偽首で陳余を騙したため陳余は張耳が死んだものと思い込んでいた)

しかし、彭城において張耳が生きていることを知った陳余は激怒して漢の敗戦後に漢を裏切り、張耳としては最早隠れている必要もなく、堂々と漢の一将として戦える訳であった。

陳平が洞察した如く、元は一国の王とは言え張耳は元々が王族でもなく、更には貧しい庶民出身である。いくら左丞相・大将軍とは言え臣下でしかない韓信の下に付けられたからと言って、別に屈辱も感じない。

更に張耳は韓信と話をして、その人柄には好意も抱いていた。

「...父上、大将軍(韓信)とはどんな方でしたか ?」

先年、まだ韓信と合っていない頃の張敖が父に問うたことがあった。

「温厚で礼儀正しい方だ。"国士無双"と言うからどんな傲岸な男かと思っていたら、こちらが驚くほど物腰が低く、礼節も弁えている...まあ、漢王が"ああいうお方"だから猶更そう思うのかもしれんが」

父の評に、張敖は思わず苦笑した。...確かに、劉邦については「ああいうお方」とでも言って笑って済ますしかないところがある。そして張敖にとっては未来の義父でもある。

張敖に対しても最早身内のつもりなのか、まあ言いたい放題に色々言ってくれたが(有体に言って侮辱もされた)...

しかし粗野で傍若無人で、想像を絶するレベルで口が悪い割に妙に人好きがするというか、張敖としては余り腹も立たぬから不思議であった。あれを徳と言うなら、従来の歴史が教えてきた「徳」という概念は完璧なまでに否定されるのではないかとさえ思えてくる。

...後年、この劉邦の傍若無人が思わぬ形で張敖に災厄をもたらすことになるのだが...それはまたはるか後年の事になる。

...

「...父上、遂に我が一族の宿怨、大哥(兄上)の恨みを晴らす好機が参りましたな」

張敖は気負っていた。
(張敖は次男と伝わるが、長男は名前すらわからない。陳余が常山国を滅ぼした際に、張耳の一族は張耳本人と張敖、少数の生存者を除き皆殺しにされており、その際に落命した可能性が高い)

最早、陳余は漢の敵というだけでなく、張一族にとって不倶戴天の仇でもある。韓信の指揮下だろうとそんなことはどうでもよい。寧ろ、あの不世出の天才の指揮下で戦えるのだと思えば勇気百倍である。

しかし、さすがに張耳は若い息子ほど楽天的にはなれなかった。

張耳は元魏の出身であり、この地では人望もある。其の伝手を頼っていくらかの兵員は補充できたものの、韓信率いる北伐軍の兵数は二万がやっとであった。

先々征服した国で募兵するとしても、とりあえず眼前の趙と代二国の戦力は合計すると十五万は下るまい。
(代王は陳余であるが陳余は趙の宰相も兼ねており、この二国は実質一つである)

僅か二万程度の兵を以て、二十万近い総兵力を擁する代と趙を攻めるのだ。いかに韓信が「国士無双」とはいえ戦術的に無理ではないか...と張耳は考える。

「敖よ。いかに左丞相(韓信)が不世出の用兵家でも、陳余の兵数は恐らく我ら漢の数倍だ...勝算は極めて少ない。それでも恐れぬか」

張耳は息子を試すつもりで聞いてみた。

「父上、我らは言わば一度は死んだ身です。そう思えば最早我ら父子に恐れるものなど何もありますまい。それが漢王の御厚恩を被り、再起の機会を与えられたばかりか、韓将軍のような偉大な将帥と共に復仇の戦いに赴けるのです。これ以上の僥倖など、そうそうございませんぞ。これらはまさに天が我が張一族を助けたもうもの。これを受けねば却って天意に背くものと言えましょう」

張耳は息子の言葉に安堵を覚えた。いくら戦術的に困難が予想されても戦う前から怖気づいていては勝てる戦も勝てぬ。この戦がそもそも勝てる戦かどうかが非常に危うい話ではあったが、それでも己の勝利を信じ、その目的に対して執着を持たぬ者では、その万一の奇跡すら望めぬではないか。

...

...そんな思いを抱きつつ出征した張耳父子であったが、井陘口において、韓信が諸将に下した軍令に諸将のみならず張耳父子も唖然とする思いになった。

馬鹿な、そんな戦術があってたまるものか...と。

韓信は下した指示は所謂「背水の陣」の布陣であった。更に韓信は、こう言ってのけたのである。

曰「今日破趙會食!」

「諸將皆莫信」と史記にあるが、諸将は茫然としたであろう。韓信のここまでの実績を知るものでなければ、気でも狂ったかとすら思ったに違いない。

それでも諸将は韓信を知っていた。その天才は熟知していた。なればこそ半信半疑...どころか全疑でありながらも軍令に従ったのであった。

ここで史記はさりげなく、重要な事実を記している。即ち、韓信は趙王の御前で開かれた趙の軍議の内容を事前に諜報によって把握していたというのである。

前述した通り、漢民族の戦争における長所として諜報に長けている点があるのだが、それにしても事前に敵国の最高軍事機密である筈の軍議の内容まで把握していたというのだから、韓信の天才とはその魔術的な用兵にばかり注目がされがちだが、その恐るべき諜報能力こそもっと高く評価されて良い。

更にここで重要な事は、韓信は敵将の一人である広武君李左車が優れた戦術家であることすら計算に入れていた節がある事である。(李左車は戦国末期の名将李牧の末裔と伝わる)

背水の陣の一方で、韓信は有名なもう一つの軍令を発している。

史記曰
「夜半傳發,選輕騎二千人,人持一赤幟,從閒道萆山而望趙軍,誡曰『趙見我走,必空壁逐我,若疾入趙壁,拔趙幟,立漢赤幟』」

これは即ち、趙の全軍が出陣していなければ成立しない戦術である。もし趙が少数の漢軍を侮り、兵力の逐次投入を行ってきた場合、僅か二千で敵陣を落とすことなど不可能だからだ。

しかし、韓信は「趙は全軍を以て、数の差を生かして漢軍を全力で叩きに来る」と確信していたに違いない。
(戦術として決して間違ってはいない...相手が韓信でなければ)

そうでなければ、こんな軍令は出せない。李左車が主張した持久戦略と狭隘な地形を生かして漢軍の補給線を絶つ戦術は陳余によって却下されたものの、戦力の逐次投入を行わず全兵力を上げて漢軍と戦うという基本であれば、正攻法に固執した陳余の美学にも反しないからだ。

...何にしても、韓信の名声を歴史上不朽のものとした所謂「背水の陣」とは、決して死地に置かれた兵士の精神力だけが勝因であった訳ではない。

韓信は周到な諜報によって敵国の戦略戦術を事前に全て把握し、かつそれらの状況を全て活用する為の布石を事前に整え、その上で背水に置かれた兵士たちの死力にかけたのであった。

一つでも前提が狂えば即漢軍の全面崩壊につながったであろう危うい戦術ではあったが、二万程度の兵力で二十万と号する十万の大軍と戦うのである。多分に賭けの要素に頼らざるを得ないのはやむを得ない処であった。

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