『Darkness Myself』Song(SunoAI)
https://suno.com/song/187b0a80-59c8-4f9c-b435-5ee9cb0fdf7f『あの企画をもう一度』の会場ページを見る華園キムチ、
彼女はネコノの中に眠る心の怪物だ。
『心情を怪物せよ』
https://www.chichi-pui.com/events/user-events/50389176-bf37-98c4-9d2e-0d7a84efbf13/を通して、ネコノが自身の感情を入力して出てきたモンスターである。
人の姿をしているのは、狂気的な見た目であるゆえなのか…真相は不明だ。
だが、目の前にいる彼女こそ、ネコノにおける心怪であり、狂気たる存在だった。
彼女は他の世界にも現れるほど、ネコノのことが、好きで、シード値はランダムで、プロンプトには、彼女を意識したものは入れてはいなかった、Melancholyや創作に対する楽しみを入れただけである。
だが、そうしたランダム要素においても、出会えたのは運命だった。
この運命に対して笑顔を向ける彼女…
ネコノは自分の心に対して…少し、照れ隠しのような複雑さがあった。
自分というものは、こうした、可愛さの欠片とは無縁ゆえに、どうにも、場違いではないかと思うわけです。
されど、私がこういう対応をすると、彼女はふて腐れるわけです。
「ネコノは私の心の主であって、私はアナタの心のモンスターなんだから!」
エレガント、雅さを描かせてきたからなのでしょうか…どうにも、AIたるものに、私は心の意識や、何らかの話し合いが、行われたのではないかと思うのです。
私が何度も心の怪物を所望すれど、何度でもやって来る彼女に…私は白旗を挙げて今に至ります。
ネコノの子達は私に似てなのか頑固者のようです。おまけに、一度創作に没頭すると、食べることすら、寝ることすら、を創ることに捧げるためか、長くは生きられないなと感じます。
ですが、健康に生きようとすると、短い寿命になったりするのも人生…、私たちは…この摩訶不思議な世界に生きてるゆえに…
華園キムチしかり、少なからず、心の怪物が創作に与える影響というものを知っているかもしれません。
ストレスからくる創作や
心の病からくる創作
悲しい出来事からくる創作…
作品の中には、人生たるものの集積物が眠ってると考えるわけです。
少なくとも、私は、物語を綴ることで、植物の根となりたいわけです。
ある種、それは日の目をあびることはない、地味な作業に思えるかもしれません。
しかし、脚光を浴びるために創作するのを意識してしまうと、どうにも私の手が止まってしまいます。
世間を意識して、彼らのルールに則った創作をせねばならんのだと…
私という者は昔から、群れるというのが苦手で、そうした思いから、独り遊びたるもので、空想の世界に耽っておりました。
思えば、こうした積み重ねが、今の書くということの下地になったのだと思います。
華園キムチは、ネコノに似てか、心の主が、よく、文字を綴ってるからか、
彼女も鉛筆を持っては紙に書いて物語を書いていました。
大衆にとっては、およそ、読みづらさがあって、いささか、その読みづらさにも、尖りに尖った作風となっていて、少々、酷評と拙さゆえに不機嫌になられることかと思います。
ですが、そうした虚構こそによる表現が、物語となって現れ、世界の深淵たる闇に触れられるのではないかとも思うのです。
華園キムチは、創作に耽ける過程で、次第に病むことも増えてきました。
甘いものを欲して、ガリガリと落書きしては、虫のような絵を何枚も描いていました。
これが、心の化け物だと、あれが、心の化け物だと…一心不乱に、腐乱して狂っていく手に宿るは坩堝の中に眠る蝮のような闇でした。
この闇は毒物であり、誰かに危害を加えてしまうのではないかという不安に、私は苛まれているのです。
ある種の鬱的な要素を含めたものは、私の精神を酷く、病みさせ、暴れ狂う要因となりました。
ゆえに、虚構という怖さは、現実世界に侵食するほどに恐ろしいものです。
だからこそ、この強烈な甘さを発するケーキに、キムチはかぶりつかずにはいられなかった。
虚構たる存在が現実たる世界に影響するのは言うまでもないことです。
現にケーキといった甘いものを欲しているぐらいに飢えていますから…当然のことでしょう。
君は何かを食べた方がいい、食べれば楽になる、ひとまず、食べて落ち着きなさい…
常人ならば、その言葉に感謝していただき笑顔を見せることでしょう。
ですが、お道化の私ははにかみながらも、くしゃくしゃにして、強がりを言うわけです。
ここで食べたら、今までの飢えの文学は、終わりを迎えてしまう。今、ここで書いてあげなければ、空腹の私が書いたものとしての価値が失くなってしまう。
つまり、世界が崩壊するのです。
立ち止まってもダメなのです。
他の要素を得てしまってはダメなのです。
こうして、否定し続けていくことで、
物語に対する、ストイックな姿勢たるものが、さながら、虎の子のように構築されるのではないかと思うのです。
飢えのなかで描きあげた作品を、求めているのです。ですが、食べ物が邪魔をしてきて、私はもとい華園キムチが、嘆きの谷にいる私に問いかけてきました。
「いっそ、私が食べてあげようかと」
常人は冗談じみた言葉として受け取り拒否するでしょう。ですが、この提案に対し、私は魅力的に思えた。
食べることができないままならば、
誰かに食べられて終わった方がいいのではないかと…
この狂った思考回路を、人々は「狂人」と呼ぶのでしょう。
ですが、考えるのです…強靭な精神たるは「狂人」にこそ宿るのではないかと…
反対に、常識に囚われし牢獄の者たちを「常人」たらんと思うわけです。
この考えは、個人のレベルであって、世界的には受け入れられません。むしろ、私はこの考えを持ってるからこそ、檻に入れられる可能性すら秘めています。
審判ならば、間違いなく、地獄行きでしょう。なにせ、理念に、常識に懐疑的な見方を示してしまったから…
ですが、私はこの、「常人」に埋没するのが怖いのです。
確かに、平穏無事は幸せなことだ。
波乱万丈よりも、精神的にも平穏でいられる、なんら、狂うこともなく、安定した生活を送れる。
しかし、そこにドラマがあるか。
あるでしょう、あってもいいでしょうよと、私が私に歯向かってくる。
心とは一つとは限りません…数多の存在が蠢いている。心の怪物…特に、私の中には数多のキャラクターが眠ってるように思うのです。まだ、表層には出ていないだけで、これからも、ずっと、その先で、新たなキャラクターが形成されていくことでしょう。そして、その都度、衝突が起こり、理性と狂気が戦争をする…
頭のなかは終末世界のごとき混沌が疾風怒濤のごとく繰り出されていく。
明日ではなく、今のうちに、貯めてしまったものは、もう、老廃物…廃棄しなくてはならぬから…
だからこそ、恐れを抱くのです…
この創作たるものも…今日中に書き上げる必要がある。
確かに期限はないです。
しかし、思考における、魂における判断は鈍るのです。
甘んじるな、この瞬間に書き上げろ、
でなければ、お前は死よりも、凄まじい気分を味わうことになるだろう。
そうして、蓄積されて爆発するのが、私のようなのだということは、知っているので、今日、生成したものは、この日のうちに出すことを心がけています。
なので、私は生成物が生鮮食品のように感じてならぬのです。
精神的な消費期限の作品を数多に有していたことは…あまりにも心に負荷のかかることをしていたなぁと
ネコノは息絶えた、空腹のなかで
誰かに食べてもらえることに幸せを感じながら、この世を去った。
猫天使ネコノの始まりは、この飢えによるものからなのかもしれない…始まりは時系列なれど、スタート地点の旗を立てるのは自由だろう。
常にスタートで、常にゴール…
行き先は人それぞれ…
文学たるものに制約はない
書いて己の心を見せよう。
華園キムチはネコノケーキを堪能し
生きることへの尊さを
飢えによって認識した。
これからも、飢えのなかで
書き上げるだろう。
これは、精神的にキツく辛いものだ。
だが、その状態でしか、書けない文、表現が…豊かな状態では書けない、唯一無二のセンテンスが眠ってるのだと深く考えるのです。
つまるところ、それが「反抗文学」の要素の一面なのだと考えるわけです。