鬼謀其八

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...物慣れた筈の職業的間諜(職業スパイ)達が思わず絶句したほどに、陳平が下した指令は非道かつ外道の極みであった。

「もう一度言う」
かなりの美男...といっていい陳平の容貌がこの時ばかりは陰惨な妖気すら帯びていた。

「此度我らに内通している者達の中で、特に元秦の者達から幾人かを標的に選び...彼らを密かに自害に見せかけて殺せ。ただ殺すだけでは意味がないのだ。絶対に、確実に、「内通の露見を恐れて追及される前に自害した」と見えるように、偽装した上で殺せ。それも、その内通は殺した者一人の行為ではなく、組織的に行われており、かつその背後に楚軍の大物がいるように見せかけよ」

「これに成功すれば、報酬の金は今までの分に加えてさらに十倍上乗せてやる。その代わり、この殺しは絶対にしくじってはならん。機会を伺い、もしわずかにでも危険を感じたら実行を中止せよ。周到に準備し、確実な好機と見たら、躊躇わずに殺せ」

「例え我らに内通していない楚兵でも、その中に元秦の者がいたら、その者も殺しと偽装工作の標的にして良い。項羽は元秦人など信じておらぬし、そもそも旧秦を今治めているのは我が漢なのだ。例え事実として内通していなくとも、内通したように見せかけて、自害を偽装して殺せば、奴は信じる」

...この度、陳平の下で行動しているのは何れもこの乱世を生き抜いてきた熟練の職業的間諜であり、或いは暗殺業の請負人達である。

裏社会でこの稼業についている者達である以上、世間並の道義や倫理の束縛など基本的に己に課していない。その海千山千の男たちにして、この度の陳平の如き非道外道な指示は受けたことはなかった。

買収して裏切らせておいて、その上で殺せという事である。彼らが一様に絶句したのも無理からぬ事であった。

...


漢三年、戦史上に言う所謂「滎陽の戦い」は惰性的な消耗戦を繰り返しつつ、その裏面では漢による密かな陰謀が着実に進行しつつあった。

稀代の謀臣陳平が、天才戦略家張子房と共に進めつつある謀略は、現時点ただ一点に目的が集約されている。

つまり、西楚の覇王項羽の唯一の参謀にして亜父とも尊称される策士、范増を楚軍の中枢から排除する。その一点である。

史記陳丞相世家は、簡潔に陳平の離間の計の一幕を記している。


「項王既疑之,使使至漢。漢王爲太牢具,舉進。見楚使,即上驚曰:「吾以爲亞父使,乃項王使!」復持去,更以惡草具進楚使。楚使歸,具以報項王。項王果大疑亞父」

あざといと言えばあざといが、現実にこれだけの小細工で項羽が范増に対する信頼を失ったとは考えにくく、同世家には陳平の施した陰謀、策略の数々が「敢えて記録に残されなかった」とわざわざ記述されている位なので、実際には歴史に残らなかった陰謀が相当積み上げられたものと思われる。

...

陳平がここまで構築してきた策略は、項羽の猜疑心を煽り立てる為の狡猾な陥穽が幾重にも施されていた。

特に陳平が悪辣だった点は、実際に楚軍内部において漢軍に内通しているグループを一定規模において構築した点にある。つまり、「漢軍への内通者が存在する」という一点に限って言えば、陳平の嘘でも何でもなく「事実」として存在したのである。

しかし、当然ながらその内通者グループは范増とは何の関係もない。

陳平は、自らが組織した内通者グループと范増があたかもつながっている...どころか、内通者たちの頂点に范増がいる...と項羽に思い込ませる工作に、ここまで全知力を注ぎ込んでいたのであった。

陳平は張子房に対しこの策略の基本的な部分について、「人を騙し、陥れる為の最良の方法は、九割の嘘の中に一割の真実を調合して、致死量の毒を味だけは美味にしてやる事」と語ったが、まさに「それ」を一つ一つ丁寧に積み上げていったのであった。

人間とはその大多数が、「見たいものだけを見て、信じたいことだけを信じ、肯定し、見たくないもの、信じたくないものから目を背けて、否定したがる」動物である。

陳平という男は、その人間という動物の負の一面、心理的な闇を操り、操作する点において、歴史上類稀な達人であったという以外にない。

此度の一連の謀略においては、陳平は自分自身すら項羽を騙す為の道具として利用した。

何しろ、陳平自身が「楚を裏切り、漢に寝返って、更には楚ではありえない大出世を遂げた」という一点においては、これまた嘘偽りのない「事実」なのである。陳平は、その己自身をも項羽の猜疑心を煽り立てる為に最大限利用した。

...

非情極まる陳平の下知に万座無言の中、一人の男が進み出た。

「...陳中尉。此度、我が漢に通じている者達の多くは、御承知の通り、関中...つまり旧秦の者達です」

陳平がその男を見ると、王敬という間諜の一人であった。

「王敬か、何か私の策に意見があるか ?」

「...彼ら内通者たちの多くは旧秦人であり、元々楚を憎む者達であります。彼らの主人である司馬欣と董翳が我が漢に背いた為に、その変転に従って楚の陣営にいるに過ぎません」

「そんな事は私もよくわかっている。だから、それがどうしたというのだ」

凍てつくような陳平の声に、一瞬怯んだかに見えた王敬であったが、勇を奮って言葉を続けた。

「彼らの故郷は今は我が漢が治める地であり、彼らが此度楚に背いたは楚に対する憎悪もさることながら旧秦の地を治める我が漢に本心から心を寄せている面も大きいのです。彼らの忠誠心は信頼できます。中尉の離間の計がいかに重要かはよく承知しておりますが、その彼らを犠牲にしてまでの画策は、我が漢にとっても損失ではないでしょうか」

陳平は鋭い視線で、王敬をしばし凝視した。

「...王敬よ、お前も関中出身の旧秦人であったな」

「左様です」

「....わかった。王敬、お前はこの任から外す。ここまでご苦労だった」

「...!!」

王敬は絶句した。しかし、その王敬の絶句が絶望や失意に代わる前に、陳平はこう畳みかけた。

「...お前のここまでの働きは十分評価しているし、これまでの報酬も約束通り与える故、安堵せよ。それだけではない、今回の私の暗殺の指令を果たした者と同等の十倍の報酬をお前にも与えよう」

王敬は仰天した。ここまでの報酬を払う...のはある意味当然としても、陳平の暗殺指令に異議を唱えた自分に、その暗殺成功者と同等の十倍の報酬を払うと陳平は言っているのだ。

王敬以外の間諜、暗殺者達も一様に驚愕していた。当然である。

「な、何故ですか。御命令に異議を申し立てた自分に、何故そのような」

「言ったであろうが、此度の殺しは絶対に失敗は許されんと...お前にそのような逡巡や無用の情けがあっては、殺しが失敗するのは目に見えておるわ」

陳平の思考は、どこまでも冷徹かつ合理性の極致にあった。

「だが、そんな本心を押し殺して私の指示に従おうとして、その逡巡や迷い故に失敗されては元も子もない。お前のように逡巡がある者がいるならば、それは事前に分かった方が、私にとっても漢軍にとってもはるかに利益になる事なのだ」

「...私の命に異議を唱えるのは勇気がいる事だ。更に、私の命に異を唱えたことでお前は本来の報酬を得られぬ危険すらあった。だが、それでもお前は正直に本心を明かした。お前がそうしたからこそ、私は計画の実行前に計画の成功を阻害する要因を未然に除外することが出来るのだ。その意味において、今この瞬間お前が果たした功績は大きいのだ。殺しの成功者と同等の報酬を与えるのはそういうことだ」

王敬の顔に、今度は理解と感激の色が浮かんだ。

陳平としては、このような場合の人心掌握術については劉邦から学んだことが大きい。

劉邦という男は、欠点もある...というか欠点だらけの男なのだが、ただ一点功績を挙げた者への評価が公正かつ正確で、かつ恩賞を出し惜しみしない、という点においては歴史上のどの君主よりも優れている。

そのような劉邦の下だからこそ、幾万の将兵も多彩な人材も命を惜しまず戦うのだという事を、陳平自身が骨身に染みて良くわかっている。

そして此度の陳平の場合、劉邦から賜った軍資金は事実上無尽蔵に近いほどあるのである。功績を挙げた者への恩賞出し惜しみなどして、配下の者達の士気を損なうなどは愚の骨頂と言うべきであった。

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