蒯徹其五

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陳平は宛という城塞都市を、実際に見たことがないのである。

かつて楚軍にいた当時の陳平は、項羽に従って函谷関から咸陽に至る道程は経験しているが、南の武関近辺については実体験がない。

楚漢戦争における主戦場が滎陽から宛に移動したとしても、漢軍が採りうる戦術は基本的に守城戦である。如何に関中で数万の兵力を補充したとしても、滎陽から脱出した劉邦旗下の直卒軍二万と併せて尚、十万には届かぬ。

野戦において現時点で天下最強を誇る項羽直卒の楚軍二十万とは、まともに戦っても絶対に勝てない。である以上、漢軍の戦術はどうあっても城塞都市の防御力を恃んでの守城にしか活路が存在しない。

袁生は「王深壁」と一言で言うが、戦術レベルにおける純粋な技術論として、宛においてそれは可能なのか...陳平としては、特に戦術レベルの実務遂行を担当する、酈商、周勃、灌嬰ら諸将の意見を質しておきたかったのである。

滎陽城においては、その防御力強化に関しては陳平自身が張子房と共に携わった為に、その堅牢さは実体験として熟知していた。

だからこそ、子房も陳平もその物理的な事実を前提にした作戦指導を展開することが出来たのである。しかし、宛という都市を陳平は知らぬ以上、陳平個人においては不安があった。

しかし、一方で劉邦以下、子房も、そして漢軍諸将の大半も実は宛という都市をよく知っているのである。

彼らは秦を打倒する戦いにおいて、「天嶮」函谷関を避けて南の武関から関中に侵攻する戦略を採ったからであった。

そして、その際に劉邦軍は実は宛という都市を武力で陥落させていない。

史記高祖本記曰
「略南陽郡,南陽守齮走,保城守宛。沛公引兵過而西。張良諫曰:「沛公雖欲急入關,秦兵尚眾,距險。今不下宛,宛從後擊,彊秦在前,此危道也。」於是沛公乃夜引兵從他道還,更旗幟,黎明,圍宛城三匝。南陽守欲自剄。其舍人陳恢曰:「死未晚也。」乃踰城見沛公,曰:「臣聞足下約,先入咸陽者王之。今足下留守宛。宛,大郡之都也,連城數十,人民眾,積蓄多,吏人自以為降必死,故皆堅守乘城。今足下盡日止攻,士死傷者必多;引兵去宛,宛必隨足下後:足下前則失咸陽之約,後又有彊宛之患。為足下計,莫若約降,封其守,因使止守,引其甲卒與之西。諸城未下者,聞聲爭開門而待,足下通行無所累。」沛公曰:「善。」乃以宛守為殷侯,封陳恢千戶。」

秦討滅戦争における宛攻略戦の経緯は、史記高祖本記における一つのクライマックスと言ってもいい。そして、劉邦という男の本質が最もわかりやすく発揮された局面でもあった。

後世、この中国において天下を狙う者達の多くが、劉邦のこのやり方を模倣した。

一般市民に対する略奪や暴行を戒め、降伏した旧敵に対しても寛容を貫く...当たり前のようで、劉邦以前の中国史において、それは「当たり前」ではなかったのだ。

更にこの時の劉邦の度胸と度量が尋常でなかったのは、降伏した宛の旧体制をそのまま認めて、西進した点である。いかに寛容に対処したといっても、降伏した宛が豹変して劉邦軍の背後でも襲った日には、劉邦は前後に敵を受けて確実に破滅する以外にない。

普通、この場合は誰もがそう思う筈である。

ところが劉邦という男はどういう神経をしているものか、平然と太守以下の秦帝国官民を許した上で、かつ彼らを後背に置いたまま、そのまま秦帝国を滅ぼす為の戦いを続けたのであった。

この場合、劉邦の寛容さが巡り巡って、今になってその真価を発揮した訳である。

秦討滅戦争において、宛は無血開城した為に軍民共に損害がなく、特に市民は戦火を免れた事によって恨みを抱くことなく漢王朝に編入され、太守以下の官吏たちも漢王朝にそのまま登用されたことによって、漢の朝廷への忠誠心が高い。

そして戦火による城塞設備そのものに対する損害もなかった為に、南陽郡の郡都としての防御力は秦帝国時代からのまま健在という意味でもある。

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