死なない童

使用したAI NovelAI
とうげの幼い頃の記憶は、いつも柔らかな陽光に包まれていた。
近所の大人たちが、道端で出会うたびにかけてくる言葉は、決まって同じだった。
「とうげちゃんは、ほんとにいい子だねえ」
「品行方正で、律儀で、成績もいつも学年トップだもの」
「とうげは、きっと偉い学者さんになるよ」
そんな声に囲まれながら、とうげは静かに微笑みを返していた。小さな両手をきちんと前に揃え、背筋を伸ばして。
心の中では、別の思いが静かに響いていた。
(……小生は、学者にはなれませんよ)
その言葉を口に出すことはなかった。ただ、穏やかな表情の裏側で、幼い胸に宿る確信のようなものが、静かに息づいていた。
家は古くからこの土地の拝み屋を務めていた。病を癒し、穢れを祓い、時として祟りを鎮める——金銭的に豊かとは言えないが、誰からも必要とされる仕事だった。
とうげは自然と、その役割を受け継ぐものだと信じていた。祖母の背中を見て育ち、草薬の匂いや古い経文の響きに囲まれて過ごす日々が、彼女の日常そのものだった。
しかし、その平穏な生活が大きく揺らぐことになったのは、とうげが十歳の頃だった。
その日の夕暮れは、いつもより重く感じられた。祖母は佐賀の山奥へ出かけ、夜遅くになってようやく帰ってきた。普段は背筋の伸びた祖母が、まるで何十キロもの石を背負ったかのように肩を落とし、顔色は土気色に変わっていた。足取りさえおぼつかない様子で、玄関の戸をくぐる音が、静かな家の中に不吉に響いた。
とうげは急須に湯を注ぎ、お茶を淹れて祖母の元へ運んだ。小さな手で湯飲みを持っていく姿は、まだ幼いながらも丁寧だった。
祖母は震える手でそれを受け取り、湯気の向こうでぽつりと呟いた。
「……死なない童、じゃった」
とうげははっと息を呑み、祖母の顔をまっすぐに見つめた。
「死なない……童?」
祖母は遠い目をして、ゆっくりと頷いた。声はかすかに掠れ、普段の力強さが影を潜めていた。
「あの山奥の古屋敷で、床下に……ずっと飼われておったという。
焼かれても、切り刻まれても、塩漬けにされても、死ななんだ。
儂は……ただ、見るしかできんかった……」
祖母の言葉は、部屋の空気を重く淀ませた。
とうげは湯飲みを持つ祖母の手を、そっと自分の小さな両手で包み込んだ。指先が冷たく、震えが伝わってくる。
「祖母様……大丈夫ですか?」
祖母は答えなかった。ただ、遠くを見つめる瞳の奥に、とうげは今まで一度も見たことのない暗い影を認めた。
それは、恐怖でも、悲しみでもなく、もっと深い——無力感と、理不尽な現実に対する絶望の色だった。
これまで一度も弱気を見せたことのなかった祖母が、初めて見せたその表情に、とうげの胸は締め付けられるように痛んだ。
家の中は静かだった。外では虫の声が細く響き、障子越しに差し込む月明かりが、祖母の皺深い顔を青白く照らしていた。
とうげは祖母の手を離さず、ただ寄り添うように座っていた。
心の中では、幼いながらも様々な思いが渦巻いていた。
拝み屋の家に生まれた者として、祖母がこれまで見てきた数々の祟りや穢れの話は、とうげも耳にしていた。だが、今回のような祖母の変化は初めてだった。
(死なない童……そんなものが、本当に存在するのだろうか。小生には、まだその意味がよくわからない)

とうげの日常は、祖母の佐賀からの帰還から一月ほどが過ぎた頃、突如として断ち切られた。
朝の陽光が障子を淡く染める中、近所の知人から届いた一通の報せが、彼女の小さな胸を鋭く抉った。両親が事故死したという。
彼らは祖母の拝み屋の仕事とは一切無縁の、ただの勤め人だった。
工場での事務と、町の小さな商店の手伝い。平凡で、穏やかで、とうげが時折見せる静かな微笑みを愛してくれていた人々。
「ありえない死に方だった」
その言葉だけが、冷たく突きつけられた。詳細は一切告げられず、遺体を見ることも許されなかった。
とうげはただ、呆然と通夜の席に座っていた。
線香の煙がゆらゆらと立ち上り、黒い喪服に包まれた体が、まるで他人のもののように感じられた。
葬式の日も、同じくぼんやりとした霧の中で過ぎ去った。
参列者たちの慰めの言葉が耳に届くが、心には何も残らなかった。
(父様、母様……どうして……)
幼い胸の内で繰り返される疑問は、答えのない闇に吸い込まれていくばかりだった。
葬式の夜。
とうげは自室の布団に横たわり、天井の木目を見つめていた。
部屋は静まり返り、わずかな虫の声だけが遠くから聞こえてくる。
心は空っぽで、涙さえ出なかった。ただ、冷たい虚無が体を包み込んでいた。
その時、庭の方から異様な匂いが漂ってきた。
煙の匂いだった。
かすかに焦げる紙の臭いと、炎の熱気が混じり合ったもの。
とうげははっと身を起こし、着物の裾を乱したまま庭へ駆け出した。
裸足の足が冷たい土を踏み、夜風が紫がかった長い髪を揺らす。
蔵の前で、祖母が立っていた。
代々家系に伝わる、呪術に関する貴重な蔵書をすべて、炎の中に投げ入れていた。
古い巻物が赤い炎に包まれ、墨の染みた和綴じの本がばらばらと崩れ落ち、祖先の記録が灰となって夜空に舞い上がる。
火の粉が暗闇を舞い、蔵の木造の壁に不気味な影を落としていた。
「祖母様……! 何を……!」
とうげが駆け寄り、祖母の袖を掴もうとした瞬間、祖母はゆっくりと振り返った。
その目は、とうげが今まで見たどんな表情よりも虚ろで、深い絶望の淵に沈んでいた。
瞳の奥にあったはずの力強さは消え、ただ虚無だけが広がっていた。
「……もう、いいんじゃ。
これ以上、関わってはならん」
祖母の声は、風に溶けるように弱く、かすれていた。
それは、とうげが知る「正気の祖母」の、最後の言葉となった。
火柱が勢いよく上がり、蔵書の残骸を飲み込んでいく。
とうげは祖母の腕を必死に引き、炎から遠ざけようとしたが、祖母の体は石のように重く、動かなかった。
熱い風が二人の頰を撫で、とうげの目には涙が浮かんだ。
その夜、とうげは祖母を部屋へ連れ戻し、布団に寝かせた。
祖母の体は冷たく、指先は震えていた。
とうげは自分の小さな手を重ね、ただ黙って寄り添っていた。
外では火が徐々に収まり、灰の匂いが家全体に染みついていった。
翌朝から、祖母は心神を喪失した。
目は虚ろに天井をさまよい、言葉はあいまいな呟きばかりとなった。
布団から起き上がることもできなくなり、ただ横たわったまま、時折意味不明の言葉を漏らすようになった。
「死なない童……」
「封じねば……」
「儂の罪じゃ……」
とうげは毎朝、祖母の布団の傍らに座り、薬を飲ませ、手を握った。
十二歳の少女が、まるで母親のように。
小さな手で湯を冷まし、祖母の唇に運び、額の汗を拭う。
家は静かに、しかし確実に崩れ始めていた。

とうげの心は、徐々に灰色の霧に包まれていった。
両親の突然の死、蔵書の炎上、そして祖母の心神喪失。
それらが積み重なるたび、幼い胸に強い理不尽が根を張った。
なぜ、こんなことが自分の身に降りかかるのか。
地域のために尽くし続けた祖母が、わずかな資産も残せずに発狂するなど、到底受け入れがたい。
両親のありえない事故死、灰となった古い巻物、布団の中で虚ろな目を天井に向ける祖母の姿。
すべてが、理不尽の極みだった。
いつしかとうげの目には、世界そのものが色を失い、ただ灰色にしか映らなくなっていた。
笑顔も、未来への希望も、すべてが淡く褪せ、味気ない影だけを残すようになった。
近所の人々が祖母の面倒を見てくれているのをいいことに、とうげは実家に近寄らなくなった。
朝夕の薬を置いていくだけの最低限の接触を繰り返し、後は夜の街へと足を向けた。
紫色の長い髪を風になびかせ、瓶底のような渦巻き模様のメガネをかけ、黒を基調とした古風な服装で闇に溶け込むように歩く姿は、すでに十二歳の少女のものではなかった。
悪い仲間たちとつるみ、薄暗い路地裏の溜まり場で酒をあおり、煙草の煙を吐き出した。
意味のない笑い声が夜空に響き渡る中、とうげはただ無表情にグラスを傾けていた。
喧嘩が起きると、事態はさらに深刻になった。
祖母から固く言い含められていた呪術を、とうげはつまらない意地っ張りの争いに平気で使った。
年上の不良たちが群がってくるたび、彼女は静かに呪禁道の印を結び、青面金剛の加護を呼び起こす。
相手の体に病の種を植え付け、幻覚を植え付ける。
一人が突然苦しみ出し、腹を抱えて地面に転がる。
もう一人は目を見開き、得体の知れない影に怯えながら壁に背を押し付けて震える。
容赦のない呪いは、幼い少女の小さな手から放たれるとは思えないほど苛烈だった。
骨の軋む音、吐息の乱れ、汗と血の混じった臭いが路地を満たす。
とうげは一歩も引かず、冷静に状況を俯瞰しながら次の呪を放つ。
「貴様らのような輩に、小生の術を使うのももったいないが……」
不良の一人がナイフを振り上げて突進してくる。
とうげは身を翻し、袖の広いロングワンピースを翻しながら眼病の呪を展開した。
相手の視界が歪み、地面が波打つように見える。
転倒した隙に、封印の陣を足元に描き、動きを一時的に拘束する。
別の者が後ろから襲いかかろうとするが、とうげは素早く心神喪失の術を絡め、恐怖の感情を増幅させた。
男は自分の影を怪物と勘違いし、悲鳴を上げて逃げ惑う。
血の臭いが濃くなり、地面に倒れた者たちのうめき声が夜の闇に溶けていく。
とうげの茶色の瞳はメガネの奥で冷たく輝き、長い髪が戦いの風に乱れても表情は微動だにしなかった。
やがてとうげは、地元で知らない者はいないほどの不良として名を馳せるようになった。
瓶底メガネの奥の目は冷たく、紫色の髪をなびかせて夜の街を闊歩する姿は、まるで小さな死神のようだった。
仲間たちは彼女を恐れ敬いながらも、利用価値を見出して引き連れていた。
しかし、幸運だった点が一つだけあった。
とうげが主に暴れていたのが、街の方だったことだ。
実家の近くは店も少なく面白みに欠けると判断しただけの理由で、彼女は地元の人々から完全に「見捨てられる」事態を回避していた。
近所の大人たちは、遠くで噂を聞きながらも、祖母の介護に忙殺される日々の中で、とうげの変貌を直接目にする機会を失っていた。

とうげの灰色の日常に、宗像千種という存在は最初から異物だった。
夜の街の路地裏で、悪い仲間たちと煙草をくゆらせ、酒の残り香を纏いながらたむろしていれば、必ずどこからか現れる小柄な影。
「とうげちゃん、またこんなところで!」
そんな声が響き、明るい笑顔を浮かべた少女が駆け寄ってくる。
喧嘩が始まれば、迷わず飛び込んで「やめなさい!」と叫び、拳を振り上げて割り込む。
近所の大人はとうげの変貌を半ば見捨て、噂を囁くだけで距離を置くというのに、あの栗色のローポニーテールをした中学一年生は、しつこく絡みついて離れなかった。
何より、とうげにとってたまらなく苛立たしかったのは、あの瞳だった。
明日を信じ、未来を信じ、キラキラと輝く純粋な光。
灰色に染まりきった自分の世界に、あまりにも不釣り合いな、眩しすぎる輝き。
それが、とうげの心をざわつかせ、苛立ちを募らせていた。
ある晩、とうげはとうとう決心した。
路地裏の奥、街灯の光が届かない薄暗い一角に千種を呼び出し、瓶底のような渦巻き模様のメガネの奥から冷たい視線を向けた。
紫色の長い髪が夜風にわずかに揺れ、黒を基調としたロングワンピースの袖が広がる。
「貴殿、いい加減にせんか。小生の邪魔をすると、ろくな目にあわんぞ?」
声は古風で落ち着いていたが、底に冷たい威圧を込めていた。
軽く呪いを飛ばすつもりだった。
年上の不良を何人も病や幻覚に陥れ、土下座させて震え上がらせた力を、わずかに見せてやれば十分だろう。
青面金剛の加護を微かに呼び起こし、精神干渉の種を相手の胸に植え付ける。
恐怖と幻覚が広がり、逃げ出すはずだった。
しかし、結果はとうげの予想を遥かに超えたものとなった。
千種は一瞬も怯まなかった。
大きなリボンを揺らし、幼く見える可愛らしい顔立ちに、むしろ怒りの色を浮かべてまっすぐに突っ込んできた。
小さな体躯からは想像もつかない速度で、拳が風を切る。
「そげなこと言わんと!」
ぐしゃっ、という鈍い音が路地に響いた。
とうげの顔面に、千種の小さな拳がめり込んだ。
衝撃が頭蓋を揺らし、視界が一瞬でぐるぐる回った。
鼻の奥から熱いものが噴き出し、血の味が口内に広がる。
地面が急に近づき、とうげは尻餅をついた。
瓶底メガネがわずかにずれ、紫色の髪が乱れて頰に張り付く。
(……これは……)
天にも昇るような衝撃だった。
格闘技をやっていた巨漢の不良ですら、自分の呪術で叩き伏せ、震え上がらせてきたというのに。
この小柄な一年生の、純粋でまっすぐな拳の前では、呪いも策略も、一切通用しなかった。
鼻血が滴り落ち、黒いワンピースの胸元を赤く染める。
とうげは呆然と、地面に座ったまま千種を見上げた。
痛みよりも、予想外の出来事に対する驚愕が、灰色の心を初めて強く揺さぶっていた。
千種は拳を握ったまま、頰を膨らませて立っていた。
栗色のローポニーテールが元気よく跳ね、明るい表情が夜の闇の中で異様に輝く。
「とうげちゃん、ちゃんと学校来なさい!
あたし、とうげちゃんのこと、放っておけないもん!
だって……友達になりたいんだもん!」
その言葉は、路地裏の湿った空気を切り裂くようにストレートに響いた。
瞳は相変わらずキラキラと輝き、迷いも怯えも一切ない。
小さな体を前に出し、拳をもう一度軽く振り上げてみせる仕草さえ、天真爛漫そのものだった。
周囲に散らばっていた不良の仲間たちは、すでに千種の勢いに気圧されて後ろへ下がっていた。
雨上がりの地面に残る水溜まりが、街灯の光を反射して千種の姿をぼんやりと照らす。
血の臭いと、路地のゴミの匂いが混じり合う中、彼女の声だけが鮮やかだった。
とうげは鼻血を拭おうともせず、ただ見つめていた。
灰色だった世界に、初めて強い光が差し込んだような感覚。
痛む顔面の熱さと、胸の奥でざわつく感情が、混ざり合って言葉にならない。
(この子は……何なのだ……小生の術も、威圧も、一切通じない……)
千種はさらに一歩近づき、しゃがみ込んでとうげの目線に合わせた。
スカートの裾が地面に触れても気にせず、元気いっぱいの笑顔を浮かべる。
「痛かった? ごめんね、でも、とうげちゃんが悪いことするからだよっ!
みんなが笑える明日があるんだから、こんなところでつるんでちゃダメなんだよ!」
声は九州訛りが軽く混じり、語尾が伸びる。
小さな手が、迷わずとうげの腕に触れてきた。
温かい。
灰色の世界で忘れかけていた、体温というものを思い出させるような、優しい熱。
とうげの茶色の瞳が、メガネの奥でわずかに揺れた。
鼻血がまだ止まらず、唇の端を伝うが、彼女はそれを無視して千種の顔をじっと見つめ続けた。
路地の奥から風が吹き、紫色の長い髪と栗色のローポニーテールを同時に揺らした。
不良仲間の一人が遠くで呟く声が聞こえたが、とうげにはもう耳に入らなかった。
心の奥底で、長く積もり積もった理不尽と苛立ちが、初めて小さな亀裂を生じ始めていた。
この小柄な少女の拳と、眩しい笑顔が、灰色の殻に穴を穿った瞬間だった。
千種は立ち上がり、とうげの手を引こうとする。
「ほら、一緒に帰ろうよ!
あたしが守ってみせるから!」
その言葉に、とうげはゆっくりと地面から腰を上げた。
まだ痛む顔を押さえ、血で汚れた袖を軽く払う。
メガネの奥の視線は冷たさを残しつつも、どこかで初めての戸惑いが混じっていた。
夜の街の喧騒が遠くから聞こえてくる中、二人の小さな影が路地裏に並んで立っていた。
灰色の世界に、一筋の光が差し込み始めていた。
この出会いが、とうげの運命を静かに、しかし確実に変えていく最初の転機となることを、彼女自身はまだ知らなかった。

とうげは翌朝、鼻の痛みが残る顔を軽く押さえながら自室の布団に横たわっていた。
紫色の長い髪が枕に乱れ、瓶底のような渦巻き模様のメガネを外した茶色の瞳が、天井をぼんやりと見つめている。
昨夜の路地裏での出来事が、まだ鮮明に胸に焼き付いていた。小柄な一年生の拳がもたらした衝撃と、あのキラキラとした瞳の輝き。
灰色の世界に無理やり光を差し込まれたような、居心地の悪い感覚が続いていた。
そこへ、玄関の方から元気な声が響き渡った。
「とうげちゃん! 今日も一緒に回るよっ!」
宗像千種だった。
ドアを勢いよく開け、小さな体を躍らせて部屋に飛び込んでくる。栗色のローポニーテールが大きなリボンとともに跳ね、明るい笑顔が朝の薄暗い室内を一瞬で明るくした。
とうげがベッドから身を起こす間もなく、千種は彼女の腕をぐいぐいと引っ張り始めた。
「ほら、早く準備して! 昨日迷惑かけたおうちを、一軒一軒お詫びして回ろうよ!」
とうげは顔をしかめ、抵抗しようとしたが、千種の力は意外に強かった。小さな手がしっかりと袖を掴み、引きずるようにして外へ連れ出す。
黒を基調としたロングワンピースの裾が朝露に濡れ、紫色の髪が風にそよぐ。
(……またか。しつこい小娘だ)
内心で毒づきながらも、とうげは結局引きずられるままについて行った。
近所の住宅街を歩き始める。
最初の一軒目では、千種が玄関先に立ち、深々と頭を下げた。
「すみませんでした! とうげちゃんがご迷惑をおかけしました! あたしも一緒に謝ります!」
小さな体を折り曲げ、額がほとんど地面に付きそうなほどに腰を折る。
家の中から出てきた主婦は、最初驚いた顔をし、次に苛立った声を上げた。
罵声が飛び、怒鳴り声が響き、時にはドアが勢いよく閉められる。
二軒目、三軒目と続くにつれ、状況は苛烈さを増した。
ある家では中年男性が怒鳴り散らし、別の家では掃除用の箒が投げつけられ、千種の肩に当たって乾いた音を立てた。
それでも千種は耐え続けた。
小さな肩を震わせながらも、笑顔を崩さず、何度も何度も頭を下げる。
「本当にごめんなさい! とうげちゃんはもう悪いことしませんから!」
とうげは最初、その後ろに立ってつまらない顔をしていた。
腕を組んだまま、灰色の視界でその光景を眺めている。
(……偽善だ。そんなことしたって、何も変わらない)
心の中で冷たく突き放す。
これまで積み重ねてきた理不尽が、こんな小娘の行動で癒されるはずがない。
ただの自己満足。
そう思い込みながら、足を動かして千種の後を追う。
十軒目を越えたあたりで、とうげの胸の奥がちくりと痛み始めた。
年配の女性が玄関先で千種を睨みつけ、厳しい言葉を浴びせかける場面。
千種は一切怯まず、ただ深く頭を下げ続ける。
その小さな背中が、朝の陽光に照らされて輝いているように見えた。
とうげの息が、わずかに乱れる。
(……なんで、こいつはそこまで……)
十五軒目。
古い木造の家の前で、激しい怒鳴り声が飛んだ。
「二度と顔を見せるな!」
千種は「はい、すみません」とまた深く頭を下げた。
ローポニーテールが地面に触れそうなほどに。
その瞬間、とうげの胸が締め付けられるように苦しくなった。
灰色の世界で長く忘れていた、何か熱いものが込み上げてくる。
鼻の傷が疼き、昨夜の拳の感触を思い出させた。
(小生のために……頭を下げているのか? この小娘は……)
汗が千種の額に浮かび、頰がわずかに赤らんでいる。
投げつけられた小石が足元に転がり、埃が舞う。
それでも千種の瞳は、相変わらずキラキラと輝いていた。
友情を何よりも大切にする自己犠牲的な心が、その小さな体いっぱいに満ち溢れている。
二十軒目。
とある家の前で、千種がいつものように頭を下げようとした瞬間だった。
「……もう、いい」
とうげが掠れた声で言った。
紫色の長い髪を軽く振り、瓶底メガネの奥の茶色の瞳に、初めて強い感情が宿る。
彼女は千種の前にゆっくりと進み出た。
黒いワンピースの袖が風に広がり、細い体が朝の光の中に立つ。
深く、深く頭を下げた。
「…………申し訳ありませんでした。
小生が、貴殿方に多大なご迷惑をおかけしました。
二度と、このようなことはいたしません」
声は震えていた。
今まで誰かに頭を下げたことなど、ほとんどなかったとうげにとって、それは魂を削るような行為だった。
唇を強く噛み、指先がわずかに震える。
胸の奥が熱く、灰色だった世界に痛いほどの色が戻ってくる感覚があった。
理不尽に苛立ち、闇に染まっていた心が、初めて溶け始めるような。
家の人々は驚いた顔で黙り込んだ。
怒鳴り声が止み、静かな空気が流れる。
とうげは頭を下げたまま、長い時間を耐えた。
過去の喧嘩の記憶、祖母の虚ろな瞳、両親の突然の死。
それらが一瞬で蘇り、胸を締め付ける。
しかし、その痛みの先に、千種の温かい存在があった。
やがて頭をゆっくりと上げたとうげの横で、千種がにこっと笑った。
「あたし、とうげちゃん……えらいよっ!」
その笑顔が、とうげには眩しすぎて思わず目を逸らした。
頰が熱くなり、鼻の傷がまた疼く。
栗色の髪が朝風に優しく揺れ、大きなリボンが陽光を反射して輝く。
千種は飛び跳ねるように近づき、とうげの腕を再び優しく掴んだ。
「これで、少しはみんな許してくれるよね!
とうげちゃんがちゃんと謝ったんだもん!
あたし、ずっと一緒にいるよっ! 友達として!」
声は明るく、語尾が伸びやかで、九州訛りが心地よく響く。
とうげは無言でその手を振り払おうとしたが、力が入らなかった。
代わりに、胸の奥から小さな吐息が漏れた。
(……この子は、本当に……)
二人はそのまま、次の家へと歩き始めた。
路地に朝の光が満ち、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
とうげの灰色に染まった日常は、宗像千種が面倒を見始めてから数ヶ月が経過した頃、少しずつだが確実に変化を見せ始めていた。
夜遊びの回数は減り、路地裏で煙草をくゆらすこともほとんどなくなっていた。喧嘩の気配を感じ取れば、千種の明るい声が脳裏に蘇り、とうげは静かにその場を離れるようになった。
毎朝、千種が家まで迎えに来て学校へ連れて行き、授業の合間にノートを広げて勉強を教えてくれる。時には一緒に祖母の見舞いに行き、病室のベッドサイドで薬を飲ませる手伝いをしてくれる。
そんな穏やかな日々が、とうげの心にわずかな温もりを運んでいた。
まだ完全に更生したわけではない。胸の奥底には理不尽への苛立ちがくすぶり続け、メガネの奥の茶色の瞳は時折冷たい影を宿していた。
しかし、千種の存在が、その影を少しずつ薄めていくようだった。

ある日の午後、犬鳴家の古びた玄関に珍しい来客があった。
玄関の引き戸が静かに開き、背の高い男性が入ってきた。
落ち着いたスーツ姿に、知的な雰囲気をまとった穏やかな笑顔。
彼はとうげと祖母の前に深々と頭を下げ、丁寧な声で名乗った。
「杜零一と申します。関西の杜総合病院の院長をしております」
部屋の空気がわずかに変わった。
祖母は布団の中で虚ろな目を天井に向けたまま、意味不明の呟きを漏らしている。
とうげは紫色の長い髪を軽く整え、瓶底のような渦巻き模様のメガネを押し上げながら、慌てて立ち上がった。
大人に頭を下げられたことなど、生まれて初めての経験だった。
小さな体が緊張でこわばり、黒を基調としたロングワンピースの袖を無意識に握りしめる。
「い、いえ……その……小生の方こそ……」
声が上ずり、言葉がうまく続かない。
杜零一は柔らかい笑みを崩さず、ゆっくりと顔を上げた。
彼の視線は優しく、しかしどこか重い責任感を帯びていた。
「長らく犬鳴家を支援させていただいておりましたが……組織の理事会で支援を打ち切ることになってしまいました。本当に申し訳ありません」
その言葉に、とうげの胸が一瞬締め付けられた。
これまで病院側から受けていたわずかな援助が途絶える。
祖母の薬代、家の維持費。
灰色の世界が再び濃くなる予感に、指先が冷たくなる。
しかし杜零一は首を横に振り、続けた。
「ただ、完全に放り出すつもりはありません。
お祖母様を当院・杜総合病院へ入院させることをご検討いただけませんか?
入院費は病院側の支援で賄えます。
そして、とうげさん……箱崎宮前学園への入学を進めてはどうでしょう。
学費も進学支援金で対応可能です。将来的には奨学金も受けられるかもしれません」
とうげは目を丸くした。
箱崎宮前学園——福岡では名の知れた中高一貫校。
これまでの自分には、到底手の届かない場所だった。
夜の街を彷徨い、呪術を振り回していた不良少女が、そんな場所で学ぶなど、想像すらしていなかった。
茶色の瞳がメガネの奥で大きく見開かれ、長い紫色の髪が肩の上でわずかに震えた。
「…………本当ですか?」
声が震えていた。
杜零一は優しく頷き、穏やかな視線をとうげに向けた。
「ええ。本気です。
あなたのような才能ある子が、道を閉ざされるのは忍びない」
その言葉を聞いた瞬間、とうげの胸が大きく高鳴った。
灰色だった世界に、初めて本物の光が差し込んだ気がした。
祖母の治療が続けられる可能性。
新しい学校での未来。
そして、千種と同じ場所で学べるかもしれない——そんな希望が、静かに胸の奥で広がっていく。
閉ざされていた扉が、ゆっくりと、しかし確実に開き始めていた。
部屋の空気に、わずかな緊張が残る中、杜零一はさらに詳しく説明を続けた。
病院の地下施設で祖母の症状に適した専門的なケアが可能であること。
学園での生活支援体制。
彼の声は落ち着いていて、信頼を誘う響きがあった。
とうげは祖母の布団の傍らに座り、冷えた手をそっと握りながら聞き入っていた。
祖母の虚ろな瞳が、一瞬だけ何かを映したような気がしたが、すぐにまた天井に戻った。
「死なない童……」という小さな呟きが、静かな部屋に溶け込む。
その時、玄関の方から聞き慣れた足音が近づいてきた。
勢いよく戸が開き、宗像千種が飛び込んできた。
栗色のローポニーテールが大きなリボンとともに跳ね、幼く可愛らしい顔立ちに明るい笑顔を浮かべている。
「あたし、とうげちゃんのところに来たよっ!
今日は一緒に祖母様の見舞い……あれ?」
千種は部屋の雰囲気に気づき、杜零一の姿を見て小さく首を傾げた。
しかしすぐに状況を察し、元気よく頭を下げた。
「こんにちは! 宗像千種です! とうげちゃんの友達だよっ!」
杜零一は穏やかに微笑み、千種の存在を温かく受け止めた。
とうげは二人の様子を横目で見ながら、胸の内で複雑な思いを巡らせていた。
(この支援……千種も関係しているのだろうか。小生のために、ここまで……)
灰色の視界に、千種のキラキラとした瞳が重なる。
数ヶ月前までの自分なら、こんな好意をただの偽善と切り捨てていただろう。
しかし今、胸の奥で熱いものがゆっくりと広がっていく。
杜零一は二人の少女に軽く会釈をし、具体的な入院手続きと入学準備のスケジュールを説明した。
書類の束をテーブルに置き、丁寧に内容を指し示す。
外では午後の陽光が障子を淡く染め、遠くで鳥の声が響いていた。
とうげは祖母の手を握ったまま、静かに頷いた。
唇を軽く噛み、震える声を抑えて。
「小生……受けさせていただきます。
祖母様のためにも……そして、自分のためにも」
声はまだ掠れていたが、そこに宿る決意は確かなものだった。
千種が隣で飛び跳ねるように喜び、とうげの腕をぐいっと掴んだ。
「やったね、とうげちゃん!
一緒に学園で頑張ろうよっ!
あたし、絶対に守ってみせるから!」
その笑顔が、とうげの心にさらに光を注ぎ込んだ。
紫色の長い髪が陽光に照らされ、メガネの奥の瞳がわずかに潤む。
杜零一は満足げに頷き、立ち上がって別れの挨拶をした。
彼の背中が玄関の向こうに消えた後も、部屋には新しい希望の気配が残っていた。
とうげは祖母の傍らに座り直し、静かに息を吐いた。
過去の理不尽、両親の死、蔵書の灰、夜の街での喧嘩。
それらがまだ胸に重くのしかかっているが、今はそれらを乗り越えるための道が、目の前に開かれていた。
千種が隣で元気に話しかけ続ける声が、部屋を明るく満たす。
(影から支える……小生は、そういう存在になれるのかもしれない)
午後の光が徐々に傾き始め、犬鳴家の古い家屋に穏やかな影を落としていく。
とうげの心の中で、灰色の世界がゆっくりと色を取り戻し始めていた。

とうげは宗像千種と友人として付き合うようになってから、日々が静かに、しかし確かに色づいていくのを感じていた。
朝の登校路では、いつも千種が先を歩きながら元気よく手を振る。
栗色のローポニーテールが大きなリボンとともに軽やかに跳ね、幼く見える顔立ちに明るい笑顔が満ち溢れている。
とうげは少し後ろを歩き、紫色の長い髪を風に揺らしながら、瓶底のような渦巻き模様のメガネを軽く押し上げた。
学校の門をくぐると、休み時間には千種が小さな紙袋からお菓子を取り出し、とうげの机に並べる。
「とうげちゃん、これ食べて! 今日のおやつだよっ!」
千種の声はいつも伸びやかで、九州訛りが優しく混じる。
とうげは飄々とした表情を崩さず、細い指で一つ摘まみながら応じた。
「ふむ……貴殿は本当に元気ですな。
小生はただ、影から見守るのみですぞ」
からかうような調子で言葉を返すが、心の中は全く別だった。
(千種……貴殿がいなければ、小生は今でも何も信じられないままだった)
灰色に塗りつぶされた世界で、未来など閉ざされたままだと思っていた。
両親の突然の事故死、祖母の心神を奪った狂気、自身が夜の街で不良として落ちていく日々。
すべてが理不尽の塊で、希望など幻想に過ぎないと信じていた。
それを変えたのは、千種だった。
まっすぐに突っ込んできて、純粋な拳で殴り、代わりに頭を下げ、笑顔で温かい手を差し伸べてくれた。
真正面からぶつかってくれたからこそ、今のとうげがある。
放課後になると、千種の無茶な行動を後ろから冷静にフォローするのがとうげの役割になった。
例えば、校庭で友達と遊んでいて転びそうになる千種を、視界操作の微かな呪で支え、転倒を防ぐ。
または、授業で分からない問題を抱えた千種に、ノートをそっと差し出し、十二天呪法のひとつを応用した記憶補強の術を軽くかける。
表向きは相変わらず飄々として、距離を置いた物言いを崩さない。
「貴殿、また無茶をしておりますな。
小生はただ、後方から支援するだけです。心配には及びませんよ」
メガネの奥で茶色の瞳を静かに細め、長い紫色の髪を耳にかける仕草。
しかし胸の奥では、強い決意が静かに燃え続けていた。
もし千種がいつか苦難に陥ったら。
もし彼女が敵に囲まれ、力尽きそうになったら。
その時は小生はすべてをかけて彼女を守る。
命を賭しても、呪禁道のすべてを注いでも、知恵の限りを尽くしても、絶対に千種を失わせたりはしない。
その想いを、とうげは誰にも——特に千種本人には顔に出すつもりなど毛頭なかった。
ある放課後の夕暮れ、筥崎宮学園の裏手にある桜の木の下で、二人は並んで座っていた。
千種はスカートの裾を整えながら、元気いっぱいに話しかける。
「あたし、今日の授業でまた寝ちゃってさ……とうげちゃんが教えてくれなかったら、絶対に分からなかったよっ!」
とうげは静かに微笑み、地面に落ちた桜の花びらを指先で摘んだ。
「小生の見立てでは、貴殿の集中力はまだまだ鍛えが必要ですな。
ですが、貴殿の笑顔を見ているだけで、小生も少しは前を向けます」
言葉は軽く、からかうような響きを帯びていたが、本心は深かった。
灰色だった視界に、千種の存在が鮮やかな色を塗り重ねていく。
祖母の入院が決まり、箱崎宮前学園への入学が近づく今、とうげの心は静かに強くなっていた。
杜病院の地下施設で祖母の治療が始まり、毎週の見舞いでは千種が一緒に寄り添ってくれる。
虚ろな祖母の瞳の前で、千種は明るく話しかけ、とうげは後ろで静かに手を握る。
夜の帳が下り始めた頃、二人は学園の門を出て帰路についた。
街灯の柔らかな光が紫色の髪と栗色の髪を照らす。
千種が突然立ち止まり、拳を握って前を指差した。
「ねえ、とうげちゃん! あそこに変な影が見えるんだけど……何かいるかも!」
いつもの無茶な好奇心が顔を覗かせる。
とうげはため息を一つ吐き、素早く周囲の気配を分析した。
十二天呪法のひとつ、視界拡張の術を軽く展開し、遠くの闇を透視する。
ただの野良猫だったが、念のため精神干渉の種を軽く撒いて近づかせないようにした。
「ふむ……ただの小さな生き物です。
貴殿は本当に危なっかしい。
小生が後ろで支えていなければ、どうなっていたことか」
からかう声に、千種は笑いながら腕を絡めてくる。
小さな体温が、とうげの黒いワンピース越しに伝わってきた。
その瞬間、とうげの胸の奥で誓いが再び強く響いた。
(……貴殿がくれた未来を、小生は絶対に守ってみせる)
二人はそのまま肩を並べて歩き続ける。
遠くの空に夕焼けの残光が消え、夜の風が木々の葉をざわめかせる。
とうげの心は、影から仲間を支える役割を自覚し始めていた。
千種の明るさがあればこそ、耐えられる。
祖母の狂気、両親の死、過去の理不尽。
それらを乗り越え、知恵の力で千種を守る存在になる。
メガネの奥の瞳が、静かに決意を宿す。
学園生活が本格的に始まる前夜、とうげは一人、祖母の病室で手を握っていた。
千種が先に帰った後、部屋には静けさが満ちる。
祖母の虚ろな呟きが小さく響く中、とうげは心の中で繰り返した。
千種のためなら、どんな闇も切り裂く。
呪禁道の奥義を極め、封印と治癒と分析のすべてを武器に。
灰色の世界から抜け出した今、とうげは初めて、自分の道を見出していた。
外では夜風が優しく吹き、桜の花びらが窓辺に舞い落ちる。
とうげの長い紫色の髪が月光に淡く輝き、飄々とした表情の裏側で、深い絆の炎が静かに燃え続けていた。
この友情が、後の八十女打倒チームでの戦いへと繋がる、確かな基盤となろうとしていた。

杜総合病院の院長室は、午後の柔らかな日差しが厚手のカーテンを透かして、広い室内を淡く黄金色に染め上げていた。
窓辺に置かれた大きなソファに、少年の姿をした杜旺骸が腰を下ろし、腕を組んだまま外の景色をじっと見つめていた。
黒髪に紫がかったハイライトが差し、乱れ毛が特徴的なショートヘアが、わずかな風に揺れる。
鮮血のような深紅の瞳は、いつもより少し重く沈んでいた。
白地に赤の縁取りが入った羽織風の上着と濃紺の袴が、少年らしい体躯にまとわりつき、足元の赤い鼻緒の草履が床に軽く触れている。
その向かいのデスクでは、背の高い杜零一が書類を丁寧にまとめながら、静かな声で報告した。
「義父さん、犬鳴先生の入院手続きが終わりました」
零一の落ち着いたスーツ姿が、院長室の知的な雰囲気に溶け込んでいる。
旺骸はゆっくりと顔を向け、関西弁の柔らかい響きで尋ねた。
「おう、ご苦労さん。どないや? 犬鳴先生の様子は」
零一は少し渋い顔をして首を振った。
書類の端を指で軽く叩きながら、言葉を選ぶように答える。
「よくありませんね。心神喪失が呪いから来ているのか、病気から来ているのか……よくわからないんですよ」
「……そうか。こら困ったな」
旺骸は小さく唸り、腕を組み直した。
深紅の瞳が一瞬鋭く細められ、表情にわずかな苛立ちが浮かぶ。
やがて今すぐどうこうできる問題ではないと悟ったのか、深いため息を長く漏らした。
少年の小さな体躯から出るとは思えない、重い溜息だった。
「しかし、犬鳴先生には申し訳ないことしたで。まさか理事会で支援が否決されるなんて……」
その言葉に、零一が静かにたしなめるように口を挟んだ。
「仕方ありませんよ。理事会は民間呪術によるマスターピースの拡散を非常に恐れていますから。
今回の支援だって、『呪術知識の流出防止』という名目で、ようやく許可が下りたんです」
旺骸の表情がますます渋くなった。
口角がわずかに上がり、悪戯っぽい笑顔の代わりに、苦々しいものが浮かぶ。
「うちが個人的に支援するのに……けったいな話やで」
「理事の一人と特別顧問が『個人的に支援します』と言って、理事会が納得するわけないじゃないですか」
旺骸は言葉に詰まり、ソファの背もたれに体を預けた。
彼自身、理事会の私物化など本意ではない。
1200年の経験が、組織の論理と現実の狭間で妥協を強いられる状況を、痛いほど理解させていた。
院長室に重い沈黙が落ち、午後の陽光だけが静かにカーテンを揺らしていた。
「はあ……」
何度目かの大きな溜息を、杜旺骸はソファの上で漏らした。
少年の姿で1200年も生きてきたというのに、案外、自分にできることが少ないことにふがいなさを感じていた。
線香のうっすらとした香りが、部屋に漂う。
ふと、遠い記憶を辿るように、旺骸は目を細めた。
「俺は若いころの犬鳴先生に、散々世話になったんや……」
旺骸は再び窓の外に目を移し、苦笑を浮かべた。
口角がわずかに上がり、悪戯っぽい笑顔の片鱗を見せるが、その奥には深い感慨が宿っていた。
「そうだったんですか?」
旺骸は遠い目をして、ゆっくりと頷いた。
深紅の瞳に、懐かしさと後悔が混じり合う。
「お前かてそうやで。お前がまだ、俺が抱っこできるくらい小さかったころ、疳の虫で夜も眠れんくて苦しんどったやろ?
あの時、駆けつけて一晩で治してくれたんが犬鳴先生や。美人やったでぇ……今はしわくちゃやけど」
旺骸は再び窓の外に目を移し、苦笑を浮かべた。
小さな手でソファの肘掛けを軽く叩く仕草に、1200年の歳月がにじむ。
「先生が死んだら、オレは道連れにされるな……『この恩知らず~』って」
養父の終わらない愚痴に、零一は肩をすくめて応じた。
「そんなに言うなら、昔みたいに義父さんが全部仕切ったらいいじゃないですか」
「阿呆」
旺骸が即座に呆れた顔をした。
乱れ毛を軽くかき上げ、赤い瞳を鋭く光らせる。
「俺はそれで戦時中に痛い目見たんや……可哀そうなもんを仰山作らされたで。あんなんもう御免や」
零一は静かに頷き、書類をデスクの引き出しにしまった。
午後の光が彼のスーツに柔らかな影を落とす。
「じゃあ、今の体制を続けるしかありませんね。
我々は神じゃないんです。できないことはありますよ」
「それはそうやが……」
旺骸はソファの上で再び深くため息をついた。
少年の体が小さく沈み込み、羽織の赤いラインが淡い光に映える。
血の臭いを嫌う彼の周囲には、線香の香りが優しく広がっていた。
慧蔵院の責任者として、マスターピースの封印管理に日々追われる身でありながら、個人的な恩義を前にした無力感が、胸を締め付ける。
部屋の空気が重く淀む中、旺骸はふと視線を零一に戻した。
口調はいつもの関西弁全開で、ツッコミの冴えを少し取り戻す。
旺骸はソファの上で再び深くため息をついた。
ふと、重要なことに気づいた彼は、ぴんと背筋を伸ばし、零一の方へ向き直った。
「あ、そうや、零一。お前、先生のお孫さんを危ない道に放り込むなよ!
先生にこれ以上恨まれるのは真っ平御免やからな!」
その言葉は、物の見事に破られる運命にあった。
犬鳴とうげは後に、自らの意志で戦いの道を歩むことになるのだから。
病院の地下では、慧蔵院の封印施設が静かに息づき続け、マスターピースの脅威を監視していた。
旺骸の小さな体が、ソファの上でわずかに動く。
関西弁のツッコミ役でありながら、妖怪界のドンとして、組織のバランスを保つ苦労が、彼の肩に重くのしかかっていた。
午後の院長室は、静かな重圧に包まれながら、ゆっくりと時を刻んでいった。

呪文

呪文を見るにはログイン・会員登録が必須です。

イラストの呪文(プロンプト)

jacket partially removed, heart in eye, burnt clothes, holding fishing rod, kanji, doujin cover, pentagram, tape gag, adjusting headwear, red socks, friends, cloud print, coke-bottle glasses, oral invitation, competition school swimsuit, barbell piercing, gradient legwear, prisoner, blood on breasts, wind chime, carrying over shoulder, tape measure, flaming weapon

イラストの呪文(ネガティブプロンプト)

jacket partially removed, heart in eye, burnt clothes, holding fishing rod, kanji, doujin cover, pentagram, tape gag, adjusting headwear, red socks, friends, cloud print, coke-bottle glasses, oral invitation, competition school swimsuit, barbell piercing, gradient legwear, prisoner, blood on breasts, wind chime, carrying over shoulder, tape measure, flaming weapon
  • Steps 28
  • Scale 6
  • Seed 2764977084
  • Sampler k_euler_ancestral
  • Strength
  • Noise
  • Steps 28
  • Scale 6
  • Seed 2764977084
  • Sampler k_euler_ancestral

まいがぁ858 Xアカ復帰できました。さんの他の作品

まいがぁ858 Xアカ復…さんの他の作品


関連AIイラスト

新着AIイラスト

すべてを見る