★文豪治さん❷

猫乃つづりさん
企画名:苦悶式創作に参加させていただきます。
https://www.chichi-pui.com/events/user-events/f14f4069-708a-a089-4491-61f078986557/

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過去企画：「後ろ姿」からのつづき↓

　昭和二十三年六月、玉川上水に身を沈めるはずだったあの日から、季節はひそやかに流れた。
　執筆の迷路に足を取られることはたびたびあったが、それでも治はまだ、生きていた。
　気晴らしの散歩を終えて三鷹の家に戻ると、彼は縁側にあぐらをかき、庭先を見やった。園子がシャボン玉を吹いている。虹色の泡がふわふわと宙を漂い、陽に透けながら破裂していく。その無邪気な笑い声は、胸の奥で淀んでいた澱を少しずつ洗い流してくれるかのようだった。
　隣には、さっちゃんが言葉少なに寄り添う。治にとっては何よりの支えだった。
　園子が放った大きなシャボン玉が、風に乗って二人の方へ転がってくる。さっちゃんの頬に映る虹色の光に、不意に彼は笑みを漏らした。
　その瞬間、煮詰まっていた一文がふと心に浮かぶ。
　「ああ、これは“グッド・バイ”の男と女に似ているのではないか。」
　滑稽で、人間臭くて、どうしようもなく哀しい登場人物たち。まるで二人の「生」と「死」の未完さを映す鏡のようではないか。
　治は立ち上がり、机へ向かう。
　原稿用紙の白に、躊躇いながらも筆を走らせる。未完のままに終わることを恐れるより、今ここで続きを紡ぐことこそが生きている証しだと、ほんの一瞬思えたのだ。
　縁側には、まだ園子の笑い声が響いている。
　その笑い声に背を押されながら、治は「グッド・バイ」の続きを探すように、黙々と文字を刻み続けた。