「...お前はどう思う、エウロピデス」
ガイウス・キルニウス・マエケナスは傍らに黙然と侍している初老のギリシア人に問いかけた。
「どうとは ?」
「クレオパトラが何を考えて、このような愚行に奔ったかだ。とても正気の沙汰とは思えぬ」
エウロピデスというギリシア人は先代からマエケナス家に仕えている解放奴隷で、ギリシア人らしく古典や歴史の教養に優れ、マエケナスの少年時代には家庭教師を務めた男だ。
机上の学問や教養だけでなく、現世の世故にも長けており、マエケナスが家督を相続した時に長年の功労に報いて奴隷身分から解放してやったのだった。
現在ではマエケナスの秘書官のような存在であり、世事に長けたこの男は何かにつけてはマエケナスの相談相手にもなっている。
マエケナスとしてはその内カエサルに願い出て、ローマ市民権も与えてやるつもりであった。ローマ社会においては、能力のある奴隷身分の者が成りあがる為の一つの典型的なパターンである。
そのエウロピデスは、若い主君を何やら奇妙な珍獣でも眺めるような目つきで凝視していたが、おもむろにこう口にした。
「...クレオパトラという女は、気が狂ったというよりも逆上したのでございましょう」
「逆上 ? 何に対してだ」
「亡き神君カエサルの遺言状に対してでございますよ」
「何だと ?」
忠実かつ有能ではあるが、やや皮肉屋な処もあるギリシア人の返答は、マエケナスの意表を突いた。
「神君カエサルの遺言状が、あの女に何の関係がある。あの女が神君と寝ていたことは周知の事実だが、エジプト女王だろうと何だろうと、法的にはユリウス・カエサル家と何の関係もない、要するに情婦ではないか。遺言状とは、その全てが法的な存在だ。あの女に何の関わりがあるか」
「...あの女はそうは思わなかった、という事でしょうな」
ギリシア人の口調には、若い主君を揶揄するような響きがあり、マエケナスは苛立った。
...この男はいつもそうだ。主君を皮肉って、からかう事をささやかな趣味にでもしているらしい。
「マエケナス様はまだお若い。こういう時に、男に裏切られたと思い込んだ女がどのような所業に出るか...想像し難いのかもしれませぬが、クレオパトラという女の反応は、その意味では大変分かりやすうございます。...確かに賢明とはとても言えませんが」
「では何か ? あの女は、神君カエサルが遺言状に何か己と子の存在について書き残すとでも、しかも己の子を後継者に指名する...等と書き残すと思っていたのか ?」
「そういうことになりましょうな」
「...バ、バカな ! いくら神君カエサルが名うての女好きでも、公的な遺言状でそんな非常識極まる戯言をわざわざ書き加える理屈があってたまるものか !」
「いや、そもそもあの女はそんな一時の感情で、愛人の男が期待した内容の遺言を残さなかったから等という理由でローマとカエサルを敵に回す気か !? それこそ正気の沙汰ではないぞ !」
クレオパトラは一私人ではない、歴とした一国の王である。
その彼女がローマとカエサルを敵に回すという事は、プトレマイオス朝エジプトという国家と、その国民全てがローマとカエサルに喧嘩を売るという意味になるのだ。
一国の王たる者が感情で左右してよい事ではないし、すべき事でもない。
クレオパトラ個人の感情が何であろうと、マエケナスにとっては凡そ理解を絶する思考である。
...
「それにしてもクレオパトラは何だとてまた、法的には庶子...隠し子に過ぎぬ己の子に神君とユリウス・カエサル家の継承権があるなどど思い込んだのだ。いくら神君の遺言状に異があるからとてローマ法に照らした時、自分が只の情婦であり、己の子が庶子に過ぎぬことは明白ではないか。あの女はその程度の物理的事実すら見えておらんのか」
マエケナスは、ごく真っ当な疑問を感じた。
その主君の疑問に対し、エウロピデスはやや態度を改めて己の見解を提示した。
「...いくら神君カエサルが女に関しては見境のないお方とは言え、今のカエサル様を後継者にとお定めになっていた以上、口先だけでもあの女に希望を持たせるような軽率な事はなさいますまい。確かに女に関してはだらしのないお方...というか、所謂「好き者」でおわしたことは事実ですが、公人としての責務と混同なさったことはございませぬ」
「しかし一方、クレオパトラはいくら聡明な頭脳の持ち主と言ってもオリエントの女です。ローマ法の概念を理解しておらぬ可能性はございます。ましていまだ若年とあれば、その可能性は高うございます。知識の量と知能の高さとは、また別物でございますからな」
マエケナスは、ギリシア人の指摘に成程...とは思ったが、それはそれで疑問があった。
「なるほど、一理ある...が、あの女がそうだとしてもエジプト人全てがローマ社会のありようを知らぬ訳ではあるまい。周囲にその現実を指摘し、あの女を制止する者がいてもよさそうなものだ」
「確かに、一般の常識に照らせば左様でございます。しかし繰り返しますが、クレオパトラはオリエントの女であり、エジプトはギリシア人が支配層であるとはいえ、オリエントの専制君主国家です。その常識は必ずしも通用しないかもしれませぬ」
「ご無礼を承知で申し上げますが、例えばカエサル様が何か誤りを犯しそうになった時、アグリッパ様やマエケナス様はカエサル様に諫言なさいましょう。カエサル様がお聞き入れになるか否かはともかく、アグリッパ様もマエケナス様も、ご意見は申し上げる筈です」
「...それはそうだ」
「そして、カエサル様はご自身の御意見とお二人の御意見が相違したからとて、それを理由にお二人を退けたり、ましてや殺すような真似は決してなさいますまい」
「当たり前ではないか」
カエサルがそのような主君なら、マエケナスはとっくに主君を見捨てて別の生き方を探している...という以前にそもそも仕えようとは思わぬ。
「...つまり、クレオパトラという女は、「臣下の意見を聞く」という一点においてカエサルとは異なる可能性が高い...ということか」
「ご明察です。エジプトは同盟国とは言い条、実質的には我らがローマの属国です。常識で考えるならば、ローマを敵に回す事=エジプトの滅亡に直結すると言っても過言ではないのが現実です。であるならば、いくらクレオパトラ個人がローマやカエサル様に対して敵意や憎悪を抱こうとも、周囲の臣下が主君の暴走を制止するのが道理です。しかし、どうも此度そのようになっているとは思えませぬ。あの女を止める者が周囲におらぬのか、あの女が排除してしまっているか、いずれかの可能性が高うございます」
「....何という事だ」
マエケナスは頭を抱え込みたい心境であった。
マエケナスは若きカエサルの参謀として、主君をローマ世界の最高権力者にすべく日夜情報を集め、あらゆる事態やリスクを想定し、政略と戦略を練っている。
...しかし、まさか神君カエサルの愛人から火がつこうとは。
しかも、その火がついた理由がやりきれない。
「...マエケナス様は、かつてクレオパトラがローマを訪問した時のことをご存じですか ?」
エウロピデスは更に別方向の情報についても、主君に提示した。
「私はその場にいた訳ではないし、詳しくは知らぬ。しかし、かなり評判は悪かったそうだな」
「元老院の者達に相当傲慢にふるまったようで、キケロなどはかなり立腹しておりました」
...舐められたくなかったのだろう、マエケナスはクレオパトラの心中を想像する。そして、その事自体には別に反感も覚えないし、クレオパトラがそうした理由も理解できる。
エジプトはローマの同盟国とは言い条、実質的には属国なのだ。その国王としては、元老院の議員連中に必要以上に強気に出て見せる必要があったのだろう。マエケナスがクレオパトラの立場でもそうしたかもしれぬ。いくら属国とは言え、いや属国だからこそ、必要以上に舐められては国益を損なうことにしかならない。
(...しかし、元老院に対してのパフォーマンスであるだけならいいが、それがあの女を無用に増長させた可能性はあるな。恐らく神君カエサルは、元老院の者達に対するあの女の傲慢さは黙認したはずだ。彼にとってもそれ自体は不利益にはならんからな。しかし、別な方向に余計な火種をまいたことになった訳か)
マエケナスは、そう洞察した。