A cage that ascends to heaven and descends to earth.
使用したAI
Stable Diffusion
11月10日は「エレベーターの日」です。これは記念日です。
以下、雑学ネタ帳「エレベーターの日(11月10日 記念日)」より抜粋引用
東京都千代田区東神田に事務局を置き、昇降機が担う社会的使命と責任を果たすために設立され、昇降機事業分野における唯一の業界団体である一般社団法人・日本エレベーター協会(JEA)が1979年(昭和54年)に制定。
1890年(明治23年)のこの日、東京・浅草においてレンガ造り12階建ての「凌雲閣」に設置された日本初の電動式エレベーターが一般公開された。
この日を中心として、同協会により昇降機の安全・安心な利用のためのキャンペーンが実施される。
以上、雑学ネタ帳「エレベーターの日(11月10日 記念日)」より抜粋引用
以下、Wikipedia「エレベーター」より抜粋および編集引用
1890年11月10日、東京浅草の凌雲閣に、藤岡市助と三宅順祐が設計した日本初の乗用エレベーターが設置された。エレベーターは地階に据え付けた7.5馬力の直流電動機1基に対し、M字状にロープで連結したかご2機を同時に運転し(交走式)、1階か8階だけに止まる独自の構造をしていた。
速度は15m/min程度の一段速度制御であった。2機のエレベーターは3畳敷の大きさで、かご内には布団を敷いた腰掛けが設置されていた。減速装置は平歯車を何段か組み合わせた歯車減速機で、ベルトが何本か見えることから運転方向の切換えは正逆1組のベルトをベルトシッパーで切換える方式であったと考えられる。
なおロープは麻ロープが使われていた。構造が不完全で故障が多く、警視庁から派遣された技術者に「危険なり」との理由で運転停止を言い渡されて、のちに撤去された。また、当時は「エレベートル」と表記されていた。
以上、Wikipedia「エレベーター」より抜粋引用
以下、Wikipedia「凌雲閣」より抜粋引用
凌雲閣(りょううんかく)は、明治時代に東京と大阪に建てられた眺望用の高層建築物である。東京の凌雲閣は、1890年竣工の高さ52m・12階建て、大阪の凌雲閣は、1889年竣工の高さ39m・9階建てだった。 名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。いずれも現存しない。
東京の浅草凌雲閣は、起案者は長岡(新潟県)の豪商であった福原庄七、基本設計者は英国人技師のウィリアム・K・バルトン(バートン)、土木工事監督は伊澤雄司であった。また、凌雲閣株式会社が設立され、初代社長として写真家で東京市会議員としても知られる江崎礼二が就任した。
東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置され、その設計にあたったのは当時東京電燈株式会社の技師で東芝の前身の一つとなる白熱舎(のちの東京電気)を創業した藤岡市助と報道された。なお、設計者のバルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、施工には反対したと後に親族は語っている。
1892年に来日したアメリカ人貿易商ロバート・ガーディナーは「レンガ造りのこの建物は高さ320フィートで最上階の3階まで電動エレベーターが備わっているが、手入れが行き届いておらず、階段を上った」としつつも、各階に飾られた絵や塔からの眺めの素晴らしさから東京観光でまず行くべき場所の一つであると薦めている。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。
1890年の開業時には「日本のエッフェル塔だ」(フランス首都パリのエッフェル塔は前年1889年開業)と多数の見物客で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。
1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。また隣地には、1912年2月「浅草国技館」が開館した。
しかし、1923年9月1日に発生した関東大震災によって、建物の8階部分から上部が折れる形で倒壊した。地震発生当時、頂上展望台付近には12 - 13名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した。
経営難から復旧が困難であったため再建は断念され、同年9月23日に陸軍赤羽工兵隊によって爆破解体された。爆破解体にはたくさんの見物人が集まっていたとされており、当時の新聞は「明治二十四年来の名物は永遠に地上から去った」と報じた。
以上、Wikipedia「凌雲閣」より抜粋および編集引用
エレベーターって、子供の頃は単純に「遊び場」でした。今思い返すと「迷惑極まりなし」ですが、まあ、本人はお構いなしでしたね(汗...
よく近所のおばちゃんに怒鳴られていたのも、今では思い出?と言えるのでしょうか...ホント限度を知らない子供だったとつくづく思います。ご迷惑をお掛けした当時の方々には本当に申し訳ないと心から思っております(汗...
そんなエレベーターが1890年から日本にあったとは、思ったよりも早く導入されていたんですね。現在、日本最古のエレベーターは京都の鴨川にある四条大橋を西に渡った側の中華料理店、東華菜館にあります。エレベーターは1924年の米国製だとか。
東京は銀座の「奥野ビル」にも古いエレベーターがありまして、こちらは私、実際にお邪魔したことがあります。奥野ビルについてググってみたところSUMAUの「築85年のアートな銀座「奥野ビル」から 新たなデザイン&アートを発信」に「民間の住居では日本初のエレベーターを設置」と記述がありました。
奥野ビルは凄い渋いビルなんですけど、あれが民間住居で日本初であることを知らずにお邪魔していましたね。
さて、プロンプトコーナー。はい、今回は1枚目のSD3 Large 3.5の一人勝ちです。いや、他の方にとっては違うかもしれませんが(汗...
2枚目はGoogle AI Studio、3枚目はCopilot、4枚目はやってみたシリーズのNova 3DCG XLです。
掲載プロンプトは1〜3枚目まで同内容で利用しました。
生成環境 Draw Things 1.20251014.0
SD3 Large 3.5
本記事は予約投稿です。 2025.11.04
以下、雑学ネタ帳「エレベーターの日(11月10日 記念日)」より抜粋引用
東京都千代田区東神田に事務局を置き、昇降機が担う社会的使命と責任を果たすために設立され、昇降機事業分野における唯一の業界団体である一般社団法人・日本エレベーター協会(JEA)が1979年(昭和54年)に制定。
1890年(明治23年)のこの日、東京・浅草においてレンガ造り12階建ての「凌雲閣」に設置された日本初の電動式エレベーターが一般公開された。
この日を中心として、同協会により昇降機の安全・安心な利用のためのキャンペーンが実施される。
以上、雑学ネタ帳「エレベーターの日(11月10日 記念日)」より抜粋引用
以下、Wikipedia「エレベーター」より抜粋および編集引用
1890年11月10日、東京浅草の凌雲閣に、藤岡市助と三宅順祐が設計した日本初の乗用エレベーターが設置された。エレベーターは地階に据え付けた7.5馬力の直流電動機1基に対し、M字状にロープで連結したかご2機を同時に運転し(交走式)、1階か8階だけに止まる独自の構造をしていた。
速度は15m/min程度の一段速度制御であった。2機のエレベーターは3畳敷の大きさで、かご内には布団を敷いた腰掛けが設置されていた。減速装置は平歯車を何段か組み合わせた歯車減速機で、ベルトが何本か見えることから運転方向の切換えは正逆1組のベルトをベルトシッパーで切換える方式であったと考えられる。
なおロープは麻ロープが使われていた。構造が不完全で故障が多く、警視庁から派遣された技術者に「危険なり」との理由で運転停止を言い渡されて、のちに撤去された。また、当時は「エレベートル」と表記されていた。
以上、Wikipedia「エレベーター」より抜粋引用
以下、Wikipedia「凌雲閣」より抜粋引用
凌雲閣(りょううんかく)は、明治時代に東京と大阪に建てられた眺望用の高層建築物である。東京の凌雲閣は、1890年竣工の高さ52m・12階建て、大阪の凌雲閣は、1889年竣工の高さ39m・9階建てだった。 名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。いずれも現存しない。
東京の浅草凌雲閣は、起案者は長岡(新潟県)の豪商であった福原庄七、基本設計者は英国人技師のウィリアム・K・バルトン(バートン)、土木工事監督は伊澤雄司であった。また、凌雲閣株式会社が設立され、初代社長として写真家で東京市会議員としても知られる江崎礼二が就任した。
東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置され、その設計にあたったのは当時東京電燈株式会社の技師で東芝の前身の一つとなる白熱舎(のちの東京電気)を創業した藤岡市助と報道された。なお、設計者のバルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、施工には反対したと後に親族は語っている。
1892年に来日したアメリカ人貿易商ロバート・ガーディナーは「レンガ造りのこの建物は高さ320フィートで最上階の3階まで電動エレベーターが備わっているが、手入れが行き届いておらず、階段を上った」としつつも、各階に飾られた絵や塔からの眺めの素晴らしさから東京観光でまず行くべき場所の一つであると薦めている。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。
1890年の開業時には「日本のエッフェル塔だ」(フランス首都パリのエッフェル塔は前年1889年開業)と多数の見物客で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。
1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。また隣地には、1912年2月「浅草国技館」が開館した。
しかし、1923年9月1日に発生した関東大震災によって、建物の8階部分から上部が折れる形で倒壊した。地震発生当時、頂上展望台付近には12 - 13名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した。
経営難から復旧が困難であったため再建は断念され、同年9月23日に陸軍赤羽工兵隊によって爆破解体された。爆破解体にはたくさんの見物人が集まっていたとされており、当時の新聞は「明治二十四年来の名物は永遠に地上から去った」と報じた。
以上、Wikipedia「凌雲閣」より抜粋および編集引用
エレベーターって、子供の頃は単純に「遊び場」でした。今思い返すと「迷惑極まりなし」ですが、まあ、本人はお構いなしでしたね(汗...
よく近所のおばちゃんに怒鳴られていたのも、今では思い出?と言えるのでしょうか...ホント限度を知らない子供だったとつくづく思います。ご迷惑をお掛けした当時の方々には本当に申し訳ないと心から思っております(汗...
そんなエレベーターが1890年から日本にあったとは、思ったよりも早く導入されていたんですね。現在、日本最古のエレベーターは京都の鴨川にある四条大橋を西に渡った側の中華料理店、東華菜館にあります。エレベーターは1924年の米国製だとか。
東京は銀座の「奥野ビル」にも古いエレベーターがありまして、こちらは私、実際にお邪魔したことがあります。奥野ビルについてググってみたところSUMAUの「築85年のアートな銀座「奥野ビル」から 新たなデザイン&アートを発信」に「民間の住居では日本初のエレベーターを設置」と記述がありました。
奥野ビルは凄い渋いビルなんですけど、あれが民間住居で日本初であることを知らずにお邪魔していましたね。
さて、プロンプトコーナー。はい、今回は1枚目のSD3 Large 3.5の一人勝ちです。いや、他の方にとっては違うかもしれませんが(汗...
2枚目はGoogle AI Studio、3枚目はCopilot、4枚目はやってみたシリーズのNova 3DCG XLです。
掲載プロンプトは1〜3枚目まで同内容で利用しました。
生成環境 Draw Things 1.20251014.0
SD3 Large 3.5
本記事は予約投稿です。 2025.11.04
呪文
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イラストの呪文(プロンプト)
jacket partially removed, heart in eye, burnt clothes, holding fishing rod, kanji, doujin cover, pentagram, tape gag, adjusting headwear, red socks, friends, cloud print, coke-bottle glasses, oral invitation, competition school swimsuit, barbell piercing, gradient legwear, prisoner, blood on breasts, wind chime, carrying over shoulder, tape measure, flaming weapon
イラストの呪文(ネガティブプロンプト)
入力なし
- Steps 28
- Scale 4.5
- Seed 2298903923
- Sampler Euler A Trailing
- Strength
- Noise 2.66
- Steps 28
- Scale 4.5
- Seed 2298903923
- Sampler Euler A Trailing
- Noise 2.66