時刻は深夜一時を回っていた。
雨は営業中より、少し強くなっている。
店の扉を叩く雨音と、氷が静かに溶ける音だけが、バーの空間に薄く広がっていた。
客席にはもう誰もいない。
さっきまで灯っていた会話の熱も、グラスの数も、今はすっかり片付いている。
——静かな夜だった。
そして、静かすぎる夜でもあった。
============================================
「香澄先輩、今日そろそろ閉めませんか?」
バックバーのボトルを整えていた私は、遥の声に振り返る。
「良かったら、ちょっと見て欲しいものがあるんですけど」
——やっぱり、来たか。
私は内心だけで、そう呟いた。
一週間前。 営業後に、水割りについて話した。
「水割りは、ただ薄めるだけじゃない」 「どの香りを立たせるかを設計するもの」
そんな話をしたのを覚えている。
遥はあのとき、目を輝かせながら聞いていた。
——嫌な予感は、その時から、少しだけしていた。
「そうね。そろそろ閉めましょうか」
私は、平静を装って答える。
「で、何を見せてくれるの?」
軽く笑いながら言ったつもりだった。
でも、自分でわかる。
期待よりも、恐怖の方が、たぶん勝っている。
============================================
閉店作業を終えたあと。
遥は待ちきれないと言わんばかりに、カウンターの内側に立った。
「えへへ。実は、水割りについて、色々試してたんです」
楽しそうだった。
その姿を見て、私は胸の奥が、少し痛む。
遥はグレンリベット12年を取り出した。
グラスに氷を満たす。 バースプーンを滑らせ、丁寧に冷やす。
氷の当たり方。 水の注ぎ方。 混ぜる速度。
どれも、迷いがない。
——いや。
違う。
“自分で選んでいる”。
そう感じた。
教わった手順を、なぞっているんじゃない。 どうすれば香りが立つか。 どこで止めれば輪郭が崩れないか。 自分で考えて、自分で決めている。
——その事実が、胸に、鋭く刺さった。
============================================
「お待たせしました!」
遥は嬉しそうに、グラスを差し出した。
「グレンリベット12年の水割りです!」
私はそれを受け取る。
グラスを近づけた瞬間、洋梨のような甘い香りが、立ち上がった。
——香りの開かせ方が、上手い。
ひとくち、含む。
柔らかい。 でも、ぼやけていない。 ストレートでは尖っていた麦の甘さが、水によって、綺麗にほどけている。
余韻も長い。 静かに、細く、綺麗に伸びていく。
私は、息を吐いた。
「……美味しい」
自然に、そう零れていた。
遥は、ぱっと表情を明るくする。
「本当ですか!?」
「ええ。本当に」
嘘じゃなかった。
悔しいほど、美味しかった。
============================================
「香澄先輩に、“水割りも美しさを表現できる”って言われてから、めちゃくちゃ考えたんですよ!」
遥は楽しそうに続ける。
「わかりやすい変化を出すだけじゃなくて、“自然に香りを開く”感じを目指したくて!」
——ああ。
そういうことか。
私は、理解した。
遥は、私の真似をしているわけじゃない。
同じ場所を見ているのに、辿り着いた答えが違う。
それが、恐ろしかった。
============================================
営業中、私は何度も遥を見てきた。
覚えるのは早かった。 それでいて努力家だった。
でも、どこかで、**“自分の延長線上”**だと思っていた。
違う。 もう、違う。
この子は、自分の足で歩き始めている。 しかも、私が想像していたよりずっと遠くへ。
============================================
「香澄先輩?」
遥の声で、我に返る。
「どうかしました?」
「……いいえ。何でもない」
私は笑った。 ちゃんと笑えていたかは、自信がなかった。
「次に何か思いついたら、また見せてちょうだい」
「はい! ぜひ!」
——また見せて、なんて。 よく言えたものだ、と自分でも思う。
「じゃあ、私、奥でちょっと片付けてから帰るから。 遥は先に上がっていいわよ」
「いいんですか?」
「うん。今日は本当によく頑張ったし」
「やった! じゃあ、お言葉に甘えて」
遥は嬉しそうにネクタイを外しながら、ふと、私の顔を見た。
「香澄先輩」
「ん?」
「ありがとうございました。今日、見てもらえて」
その目が、まっすぐすぎて。 私は、視線を少しだけ逸らした。
「……うん」
それしか、言えなかった。
============================================
遥が帰った後、私はカウンターの内側で、しばらく立ち尽くしていた。
遥のグラスを、ゆっくり洗う。 遥が自分で選んで、自分で作った一杯の、残り香が、まだほのかに立っている。
それを流してしまうのが、なぜか、もったいなかった。
============================================
その日の帰り道。
雨はまだ降っていた。 営業前より少し強くなって、街灯に照らされたアスファルトが、鈍く光っている。
歩きながら、私は、さっきの水割りを思い出していた。
香り。 温度。 余韻。
そして、遥の目。
あの子は、本気で楽しくて仕方ないのだ。
だから伸びる。 失敗しても考える。 考えたことを試す。 試した結果を、また次に繋げる。
その積み重ねを、誰より楽しんでいる。
……強い。
「……教えたくないな」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
最低だ。 自分でもそう思う。
でも、それが本音だった。
教えるほど伸びる。 しかも、私の想像を超えていく。
怖かった。 追い抜かれることが。 置いていかれることが。
——いや。
違う。
本当に怖いのは。
**“遥が、自分と同じ景色を見始めていること”**だった。
============================================
私は、歩みを止めた。
雨音だけが、静かに響く。
——昔のことを、思い出した。
バーテンダーになったばかりの頃。 先輩たち——麻美先輩や、その上の店長——の背中を、必死で追いかけていた頃。
追いつきたかった。 認められたかった。 同じ場所に立ちたかった。
——遥も、今、そこにいるのか。
そう思った瞬間。
胸の奥にあった、苦しさが—— ほんの少しだけ、形を変えた。
悔しい。 怖い。
でも、それだけじゃない、何かが、混ざっている。
——その「何か」の名前を、私は、まだ知らない。
============================================
私は、しばらく立ち尽くしていた。
雨が、コートの肩を、少しずつ濡らしていく。
——これは、一人で考えていてもダメだ。
そう、思った。
普段の私なら、こういう感情は、誰にも話さない。 店長として、先輩として、ちゃんと処理して、誰にも気づかれないところで畳んで、引き出しの奥にしまう。
それが、ずっとやってきたやり方だった。
——でも、今夜は、それが出来そうにない。
なぜなら、この感情は、自分一人で見ていても、輪郭がはっきりしないから。
「教えたくない」だけじゃない。 「怖い」だけじゃない。
その下にある、もっと深い何か—— たぶん、私自身では、もう、すくい上げられない。
============================================
ふと、頭をよぎる顔があった。
有紗さん。
論理で物事を整理する人。 感情を、構造として理解する人。
——日曜のカフェに、行ってみようか。
そう思った瞬間、自分でも少し驚いた。
私は、いつも**「相談される側」だった。 誰かに「相談する」**ことを、自分から選んだのは、いつ以来だろう。
たぶん、ずっと前。 バーテンダーになって、まだ慣れない頃。 麻美先輩に、技術のことで何度も聞いていた、あの頃以来。
——情けない。
そう思いかけて、私は、首を小さく振った。
違う。 情けないんじゃない。 これは、ただ—— **「私もまだ、人に頼っていいんだ」**ということを、忘れていただけだ。
============================================
雨脚が、ふっと弱くなった。
街灯に光る雨粒が、さっきまでより、細くなっている。
私は、ゆっくりと歩き出した。
——遥のことを、許したわけじゃない。 いや、許すという言葉自体、おかしい。 遥は、何も悪いことをしていない。
ただ、私が、揺れている。 ただ、それだけ。
それを、認めるところから、始めなきゃいけない。
============================================
家に帰り着いた頃には、雨は、ほとんど上がっていた。
濡れたコートをハンガーにかけて、私は、ベースのケースを、ちらりと見た。
——久しぶりに、弾いてみようかな。
少しだけ、そう思った。
でも、今夜はやめた。 弾けば、また考え事が止まらなくなる気がして。
代わりに、私は、スマホを手に取った。 有紗さんの連絡先を開く。
メッセージを打ち始めて、止まる。 何度か書き直して、最後にこう打った。
「有紗さん、こんばんは。
今度の日曜、カフェに伺ってもいいですか?
ちょっと、お話したいことがあって」
送信ボタンを押すまで、少しだけ、時間がかかった。
押したあと、スマホを伏せて、私は、深く息を吐いた。
——一歩だけ。 まだ、何も解決していない。 でも、一歩だけ、踏み出した。
それが、今夜の私に出来る、精一杯だった。
============================================
窓の外で、雨が完全に止んだ。
雲の切れ間から、ほんの少しだけ、月の光が滲んでいる。
私は、ベースのケースに触れて、撫でるように、手を置いた。
——遥には、まだ、しばらく内緒だ。
そう思って、私は、ふっと小さく笑った。
その笑みは、夜の中で、たぶん、誰にも見られていなかった。


----------------
今回から、香澄さん主役のお話が続きます。
私のうちの子の中では、やっぱり香澄さんが一番トップに来ます。
でも、よく考えてみたら香澄さんが主役のお話って少ないなぁって思ったのがきっかけでした。

また去年から香澄さんと遥さんを、仲良しの先輩・後輩だけじゃなくて一つ進めたいなぁとは考えていました。
忙しかったり、構想を練るってのが出来なくて中々進められませんでしたが、そこはAI時代。
文章やプロットを書く能力も高い、Claudeのおかげで何とかプロットは完成しました。
個人的にはかなり好きなプロットが出来たので、後は添削をもらいつつ書き上げたいなと思います。
完結は…今年中には何とか:あせあせ:

さて、グレンリベットについても少し。
スコッチウイスキーの中でも、代表格の1つに挙げられる銘柄かと思います。
歴史的にも、スコットランドで最初の政府公認蒸留所になったり、
「グレンリベット」を勝手に他業者が名乗ったので、裁判でようやく唯一性を勝ち取るなどエピソードが多いです。

もちろん品質も一流。
フルーティーですっきりした味わいは飲みやすく、どんな使い方にも向いているものです。
その中でも今回は水割りに注目したお話としてみました。

スーパーでも見かけることがある銘柄ですし、是非お試しください!

呪文

入力なし

A.Libraさんの他の作品

A.Libraさんの他の作品


関連AIイラスト

新着AIイラスト

すべてを見る